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ボードゲーマーに贈る「ドン・ピエール」の歴史的背景


ボードゲーム「ドン・ピエール」とは

 ホビージャパン/葡Pile Up Gamesより発売されているボードゲーム「ドン・ピエール(原題:DOM PIERRE)」は、シャンパンを生産販売するワーカープレイスメントです。

 タイトルにもなっている「ドン・ピエール」とは、17世紀から18世紀にかけてフランスのシャンパーニュ地方で活動していた実在の修道士「ドン・ピエール・ペリニヨン」のことです。彼はシャンパンの生みの親と言える人物だったりします。
 ところで「ドン・ピエール・ペリニヨン」と書くと分かりにくいと思いますが、この名前から「ピエール」を抜くと「ドン・ペリニヨン」となるのにお気づきでしょうか。ドン・ペリニヨンと言えば高級シャンパンの代表的銘柄である「ドンペリ」の正式名称。誰もが知るあの銘柄は、シャンパンの生みの親であるドン・ピエール・ペリニヨンから採られたものなのです。

What's シャンパン?

 実は私、恥ずかしながらボードゲーム「ワイナリーの四季」をプレイするまで全く知らなかったのですが、「シャンパン」はざっくり言えば炭酸ワイン、一般には「スパークリング・ワイン」「発泡性ワイン」などと呼ばれるタイプのワインです。シャンパンは元来「シャンパーニュ地方の地ワイン」でしたが、その高品質さと人気から醸造法が各地に広がって、現在のスパークリング・ワインの原点ともなりました。
 その選定基準は現在世界各地で数多醸造されているスパークリング・ワインの中でも特に厳しく、故に「シャンパン」は王侯貴族御用達の高級ワインの代名詞ともなりました。そのため、かつてはブランドイメージからシャンパンを騙る低品質なワインも作られていましたが、フランス国内では1919年に制定された「原産地保護に関する法律」により「シャンパン」の明確な基準が定められました。この影響で日本のシャンパン風炭酸飲料は1966年に「シャンメリー」に改名することになります。その後も「シャンパン」ブランドを保護する動きは拡大し、1994年に制定された「TRIPs協定」と言う国際協定に基づき、現在では認定されていないワインを「シャンパン」と称するのは日本においても違法となっています。
 その特徴は、ブレンドされた白ワイン、含まれる炭酸、添加されたシロップ、そして澱を取り除いた透き通った黄金色。文明の進んだ現代では巨大タンクで大量生産したり、炭酸を後から注入したりして低価格化したスパークリング・ワインもありますが、「シャンパン」は現代でも伝統的な製法で醸造されており、高級なブランドイメージに相応しい高品質を保っているそうです。

ワインからシャンパンへ

 それでは、シャンパンはどうやって誕生したか。それを語る前にざっくりと、ワインの歴史について振り返ってみましょう。
 ボードゲーム「ヘブン&エール」の記事でも簡単に触れましたが、そのまま飲める生水に乏しかったヨーロッパでは、古代ローマ時代から飲料としてワインやビールが作られ広く飲まれていました。このため古代ローマ時代からブドウはヨーロッパ各地で栽培され、更にキリスト教で「ワインは神の血」とされたことで、ワインはキリスト教の宗教儀式に欠かせないものとなり、必然的に修道院で醸造されるようになりました。

 時は流れて17世紀半ば。シャンパンの生みの親であるドン・ピエール・ペリニヨンは、フランスのシャンパーニュ地方で書記官の家に七人兄弟の末っ子として生まれました。父や叔父の一人はブドウ畑を所有していたそうですが、子供だった彼自身がブドウやワインにどの程度関わっていたのかは分かりません。ただ幼少期から少年聖歌隊学校で学び、家から独立するにあたって修道士の道へと進んだそうなので、信心深い人物だったのは間違いないでしょう。
 1668年、マルヌ県のオーヴィレール修道院に移ったドン・ピエールは、院の酒庫責任者に任じられると、1715年に77歳で逝去するまでの47年に渡り、ワイン生産に関して様々な改革を行い、院が醸造するワインの品質向上に邁進したそうです。それは原料となるブドウの育成や剪定や選別、ワインのブレンドを原料であるブドウの段階から始めるなど、現代のワイン作りにも大きな影響を与えるものでした。

 彼は特にワインの「泡」について研究し、そのために各地の修道院を巡礼することもあったようです。
 ワインは発酵の段階で多かれ少なかれ炭酸が発生しており、スパークリングではない通常のワイン(スティル・ワイン)にも少量の炭酸が含まれていますが、ドン・ピエールの時代には炭酸により発生する泡はワインの「欠点」と見做されていました。と言うのも、泡が発生すると言うのは発酵が進み二酸化炭素が発生している、と言うこと。当時のワインにとって泡は雑味でしかなく、保管のため密封するとワインに二酸化炭素が溶け込んで泡が増え、またその圧力に当時のワイン瓶は耐えられなかったのです(このため当時ワインは樽で保存していました)。ドン・ピエールは、この泡の発生を極力少なくするために、様々な改革を行い技術開発し、シャンパーニュのワインを貴族にも好まれる高品質なものにしたそうです。
 彼の開発した技術のひとつに、黒ブドウ(赤ワイン用のブドウ)から白ワインを醸造する技術がありました。彼は「黒ブドウの方が泡が出にくく、かつ皮から出た渋みや風味はワインの品質を低下させる」と考えていたそうです。ワインの色はそもそも「ブドウの皮の色」が果汁に染み出たものなので、ドン・ピエールは比較実験を行い、皮の色が移る前に果汁を抽出する技術を確立しました。この技術は現在まで伝わっており、黒ブドウを原料とした白ワインが少量ながら市場に出回っている他、シャンパンの原料には現在でも当然のように黒ブドウが使われているそうです。
 周囲の評によると「完璧主義者」だった彼は1694年9月、「世界最高のワインを造ることが自身の使命」と書き残しています。

 そんな彼が放置していたワインが、二次発酵により偶然にもシャンパンになった、とされていますが、実際のところはドン・ピエール以前からスパークリング・ワインは存在していたそうです。言われてみれば確かに、世界最高のワインを作ろうとしていた人物が「ワインを放置」と言うのも考えにくいですよね。
 スパークリング・ワインに関する最古の記録は、1531年にオード県のサン・ティレール修道院で、地下に貯蔵したワイン瓶から偶然に生まれたと言うもの。この修道院は、ボードゲーマーにはお馴染みのフランスの都市「カルカソンヌ」から南方15km~20kmほどの場所にあります。この地域で現在でも生産されているスパークリング・ワイン「ブランケット・ド・リムー」は、サン・ティレール修道院で生まれたスパークリング・ワインが由来だそうです。

 また、ドン・ピエール以前からシャンパーニュ地方のワインはイギリスへ輸出されていました。ブドウ栽培の北限地であったシャンパーニュ地方は、ワインの産地として最もイギリスに近いと言う地理的条件もあったのでしょう。冷涼なシャンパーニュから比較的温暖なイギリスへ運搬されると、ワインが二次発酵してスパークリング・ワインとなり、それがイギリスでは好んで飲まれていたようです。
 ドン・ピエールがオーヴィレール修道院に移るよりも前の1662年、イギリスの科学者クリストファー・メレが王立学会に論文を発表しており、その中にはワインに糖分を加え二次発酵させることでスパークリング・ワインが製造できると書かれているとか。この論文は公文書なので、ドン・ピエール以前のイギリスにスパークリング・ワインが存在していたことは間違いなさそうです。ただイギリスでは当初、ワインをグラスに注いだ後にシロップを加えて飲んでいたそうで、もしかしたら単にワインを甘くしようとした結果、偶然スパークリング・ワインになったのかも知れませんね。
 メレの論文に基づき、イギリスでは早くから発酵時の内圧に耐えられるガラス瓶が製造され、イギリスのガラス製造技術の発展に繋がったとか。一方のフランスでは当時、それだけの品質や強度のガラス瓶を作ることは出来なかったようです。

ドン・ピエール伝説

 と言う訳でドン・ピエールがシャンパンの生みの親と言う説は、シャンパンのブランドイメージを高めるための宣伝文句だったようです。ごめんね、素直じゃなくて。今なら真実言える。とは言え、ドン・ピエールがシャンパンの誕生に全く貢献しなかった訳ではありません。

 一般にワインは単一品種で醸造されますが、単一品種ではヴィンテージ(そのワインの醸造に用いたブドウの収穫年)、すなわち年毎のブドウの出来でワインの品質も左右されます。しかし彼はワインをブレンドすることで、その品質を一定に保つことに成功しました。
 そもそも彼が所属していたオーヴィレール修道院には、周辺のブドウ農家が納税のため、以前からブドウを持ち込んでいたそうです。ワインは多方面で需要があるので物納できたんですね。しかし当時のシャンパーニュ地方は黒ブドウの産地かつブドウ栽培の北限地で、現代のような技術も知識もなかったため、安定した品質のブドウを作ることは困難でした。そしてもうひとつ、冷涼な気候で作られるブドウは酸っぱくなりやすく、赤ワイン向きではありませんでした。
 院に持ち込まれるのはブドウの品種も品質も多様であったらしく、ブレンド・ワインを作る下地は彼以前からありました。ただ、アッサンブラージュ(ワインのブレンド)には非常に高度な知識と技術が必要だそうで、様々な品種のブドウを混ぜること自体はドン・ピエール以前から行われていたそうですが、ただ漠然と混ぜるだけでは品質は良くならなかったようです。
 しかし彼は非常に優れたブレンダーで、原料のブドウの段階でブレンドしていたそうですが(この方法は今日では混醸と呼ばれています)、ブレンド前に原産地を知らない状態でブドウを試飲していたそうです。先入観を排除すべく、ワインの情報を与えられない状態で試飲することを「ブラインド・テイスティング」と言いますが、「ブラインド」には盲目の意味も含まれるため、ここから「ドン・ピエールは盲目だった」と言われるようになったとか。

 やがてイギリスでのスパークリング・ワインの流行が海を渡ってヨーロッパへ来ると、スパークリング・ワインの評価は上がり、フランスでもスパークリング・ワインの泡は「欠点」とは見做されなくなっていきました。詩人にして童話作家シャルル・ペローが1692年9月に書いた手紙には、「スパークリング・シャンパーニュ」への言及があるそうです。恐らくはワイン瓶の製造技術の向上もあったのでしょうが、ワインから泡を除くことに腐心していたドン・ピエールの心情や如何に。
 1715年9月1日、フランスの太陽王ルイ14世が逝去し、甥のオルレアン公フィリップ2世が摂政になると、彼がスパークリング・ワインを好んでいたこともあって、彼は毎晩のようにスパークリング・ワインを振る舞っていたそうです。同年9月24日にドン・ピエールが逝去したことや、その3年後の1718年に司教座聖堂参事会員ジャン・ゴディノ大僧正が『シャンパーニュ地方のブドウ栽培とワイン醸造法』なる無料冊子でドン・ピエールのワイン醸造法を公開したこともあって、各地でスパークリング・ワインの醸造が盛んになりました。彼が研究した「ワインに泡が出ないようにするため知識」は、裏返せば「どうやればワインに泡が出るようになるのかの知識」でもあったのです。
 こうしてシャンパーニュ地方にも多くのシャンパンの醸造所が作られ、それらは現在「メゾン(メゾン・ド・シャンパーニュ)」と呼ばれています。「メゾン」は厳密には家や建物を意味しますが、現在では会社や店を「メゾン」と呼ぶことも多いそうです。日本では「めぞん一刻」で知られるようになりましたね。

 1721年にはドン・ピエールの後継となった修道士ドン・グルサールがドン・ピエールの(恐らくは誇張が多分に含まれる)伝記を発表し、その中でドン・ピエールは「シャンパンの生みの親」とされたようです。現在まで伝わるドン・ピエールの「伝説」も、このドン・グルサールによる伝記に基づいていたとも。しかしオーヴィレール修道院は1789年のフランス革命により解散してしまいます。

 少し戻って1743年、クロード・モエがマルヌ県エペルネーで「モエ商会」を設立し、シャンパーニュ地方のシャンパンをパリへ運ぶようになります。この商売は大当たりだったようで、創業後まもなく、パリの名だたる貴族が顧客として名を連ねたと言います。フランス革命を経て1833年にはクロードの孫ジャン・レミ・モエが息子ヴィクトールに家督を譲り、また娘アデライデと結婚したピエール・ガブリエル・シャンドンが共同経営者になったことで商会の名前も「モエ・エ・シャンドン」に改名。同年、オーヴィレール修道院も購入し、2023年現在もオーヴィレール修道院はモエ・エ・シャンドンの所有物件となっています。

 フランス革命後も依然としてシャンパンは高級品でしたが、フランス革命100周年を記念した1889年の第4回パリ万博、1858年創業のシャンパンメーカー「メルシエ」が創業者ウジェーヌ・メルシエの意向で、万博用に仕込んだシャンパン20万本分を会場に持ち込み祝い酒として振舞ったそうです。彼は非常に優れた宣伝手腕の持ち主だったようで、1870年から1881年にかけて作らせた当時「世界最大のワイン樽」にシャンパンを入れて会場に持ち込みました。その大きさは高さ5メートル、容量は16万リットルだったとか。また、このときメルシエはドン・ピエール・ペリニヨンを「シャンパンの生みの親」として大いに喧伝したそうです。更に1900年の第5回パリ万博では、シャンパンPRのためドキュメンタリー映画まで作ったと言う熱の入れよう。彼はシャンパンの品質を保ちつつ、庶民に広く普及させることに腐心していたそうです。
 これらのパリ万博を機にシャンパンは「貴族御用達の高級品」から「誰でも楽しめるもの」となり、一気に世界に広がりました。「シャンパンの生みの親」であるドン・ピエールの名前と伝説も、恐らくはこの頃に広まったのでしょう。
 なお、パリ万博で展示された「世界最大のワイン樽」は、2023年現在でもメルシエのメゾンで見ることができるそうです。

 また、メルシエは「ドン・ペリニヨン」と言うブランド名の権利を所有していたそうですが、1927年にウジェーヌの孫フランシーヌ・デュラントとピエール・ガブリエル・シャンドンの孫ポール・シャンドンが結婚した際、メルシエは「結婚祝い」としてモエ・エ・シャンドンへ商標権を贈りました。ちなみに両社は割とご近所さんで、当時は最大のライバルでもあったようです。ロミジュリ?
 こうして「シャンパン誕生の地」と「ドン・ペリニヨン」のブランド名を入手したモエ・エ・シャンドンは、大手を振ってドン・ピエール・ペリニヨンの名を冠したシャンパン「ドン・ペリニヨン」を発売します。ドン・ペリニヨンのファースト・ヴィンテージ(初めて仕込みを行った年)は1921年、発売はその15年後の1936年です。
 なお翌1937年にメルシエが「キュヴェ・ドン・ペリニヨン」を発売したと言う話があり、この「メルシエのドンペリ」について詳細が出てこなかったので詳しい事情が全く分からないのですが、最初に「キュヴェ・ドン・ペリニヨン」を発売したのはモエ・エ・シャンドンではなくメルシエで、モエ・エ・シャンドンが1970年にメルシエを買収した際に「ドン・ペリニヨン」の商標だけをモエ・エ・シャンドンに移したそうです。

  どっちやねん!

 創業時からモエ・エ・シャンドンは伝統的な高級シャンパンを、メルシエは大衆向けシャンパンを作っていたそうなので、もしかしたら「シャンパンの生みの親」の名を冠したシャンパンは高級シャンパンとして売り出したい意向があったんでしょうか。
 ちなみに現在モエ・エ・シャンドンの公式サイトでは、「シャンパンの生みの親はドン・ピエール・ペリニヨン」と言う話についての言及はないらしいです。

余談:世界最大のワイン樽

 完全に余談ですが、世界最大のワイン樽の記録はその後更新され、ドイツのハイデルベルク城には1751年に作られた高さ8.5メートル、容量22.1万リットルの「カール・テオドール樽」が……ってあれ? メルシエさん、あなたが1870年に作らせた「世界最大のワイン樽」って、これより小さいですね?

 ちなみにハイデルベルク城のワイン樽は、税として物納されたワインを保存しておくためのものだったそうです。1591年に作られたヨハン・カジミール樽が初代で、カール・テオドール樽は4代目だそう。

 他にもドレスデン近く、ドイツのベルリンからチェコのプラハを結ぶ線上、チェコの国境間際のケーニヒシュタイン要塞に、1722年から1725年にかけて作られた容量約25万リットルのワイン樽があったそうですが、こちらは老朽化により1818年に解体され、現存していません。現在は地下貯蔵庫の入口に当時の様子を描いた絵画が展示されており、その面影を偲ぶことができます。

 そして2023年現在の真の「世界最大のワイン樽」は、1934年に作られ、ドイツのバート・デュルクハイムで見ることができる直径13.5メートル、容量170万リットルのものだそうです。ワイン醸造家にして樽職人のフリッツ・ケラーが、記念碑として制作を思い立ったとか。
 この樽は2023年現在、内部にレストラン「Dürkheimer Fass」が設置されており、通年営業しています。目前の広場では毎年9月に世界最大のワイン祭り「ヴルストマルクト(ソーセージ市)」が開催されているそうです。

 またレストランではありませんが、ドイツには何ヶ所か、個室として宿泊できる大きさの木樽を設置している宿泊施設もあるようです。ドイツ人、樽が好きすぎだろ。だから体型も樽(手記はここで途切れている)

 ウジェーヌ・メルシエがドイツのハイデルベルク城のワイン樽の存在を知ってたかは定かではありませんが、メルシエのワイン樽が当時のフランス国内で最大規模だったのは間違いないでしょう。そこは間違いじゃないと信じたい……でも「ドン・ピエールはシャンパンの生みの親」って大々的に宣伝した人だからなぁ……知っててドイツへの対抗心もあったとかかなぁ……


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