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ボードゲーマーに贈る「ハドリアヌスの長城」の歴史的背景


ボードゲーム「ハドリアヌスの長城」とは

 アークライト/新Garphill Gamesから発売されたボードゲーム「ハドリアヌスの長城(原題:Hadrian's Wall)」は、蛮族の侵入から国を守るための長城を築き、自国の防衛に貢献しよう!と言うロール&ライトゲームです。
 ロール&ライトとは、紙ペンゲームとも呼ばれる、ランダムに選ばれた要素を専用シートに描き込んで進行するタイプのボードゲームです。使う用具に基づいた分類であるため、ゲーム内容としては本作のような防衛ものの他にも、テトリスにも似たパズルめいたものから、領地拡大もの、登山ものや航路開拓もの、果てはTRPGを思わせるダンジョン探索まで様々あります。
 大抵のロール&ライトは専用用紙、筆記具、カードやダイスなどのランダム要素と比較的コンパクトで軽く遊べますが、本作は私が知るロール&ライト系の中では記事執筆時点(2024年1月)で最も重い(物理)ゲームです。

 タイトルにもなっているハドリアヌスの長城とは、グレートブリテン島の北部、イングランドとスコットランドの国境近くに実在する遺跡で、世界文化遺産のひとつです。

 長城は1900年ほど前に建造されたものですが、付近に生えていた樹齢数百年と言われるカエデ「シカモア・ギャップの木」が去る2013年9月に伐採されたニュースも記憶に新しいところです。この木が印象的だと言う映画「ロビン・フッド」は見たことありませんが、角度によっては「二つの丘陵のちょうど谷間中央に生えている巨木」が望める写真を見る限り、そこが素晴らしい「映えスポット」であり、それが失われたことは残念でなりません。

 今回はこの「ハドリアヌスの長城」が建設されることになった歴史的背景を詳しく見ていきたいと思います。

始まりはいつも古代ローマ帝国

 そもそもハドリアヌスの長城の「ハドリアヌス」とは何ぞや、と言うと、1世紀から2世紀にかけて実在した古代ローマ帝国の第14代皇帝の名前です。ハドリアヌス帝の命令によって建てられた長城だから「ハドリアヌスの長城」。実に分かりやすいネーミングです。
 では、ハドリアヌス帝は何故、ローマ(イタリア)から遠く離れたイギリスのグレートブリテン島に「長城」を建てさせたのか。

 ここで思い出してほしいのは、日本人が「長城」と聞いて真っ先に思いつくであろう東アジアの長城、中国北部にある世界文化遺産「万里の長城」です。こちらは紀元前3世紀に秦の始皇帝によって建てられたのが最初で、その後も明代まで修復や増築や移築がされていたことが判明しています。
 中国は古くから、北部のモンゴル高原を拠点とする遊牧民族との国境争いを繰り返していました。秦代の中国は漢民族の王朝でしたが、後代、ツングース系民族の女真族の王朝である金や、鎌倉時代の日本への侵略を目論んだモンゴル人の王朝である元のように、北方民族に征服された時期もありました。ここからも分かるように、中国にとって脅威であった北方民族からの防衛線として築かれた「壁」が万里の長城なのです。

 中国の「万里の長城」が北方民族に対する防衛線であったように、ハドリアヌスの長城もローマ帝国の侵略によって北方に追いやられたグレートブリテン島の原住民ケルト民族の再侵入を防ぐためのものだったのです。

 グレートブリテン島は1世紀半ば、第4代クラウディウス帝の時代にローマ帝国の属州「ブリタンニア」となりました。当初のブリタンニア属州はグレートブリテン島の南東部、現在のコルチェスター周辺のみでしたが、総督は代々の軍団長経験者と言った点からも分かるように、ローマ帝国の圧倒的な軍事力を背景とした統治でした。
 コルチェスターや、後に総督府の移転先となったロンドンを拠点に徐々に軍事侵攻で領土を増やしていき、第9代ウェスパシアヌス帝の時代から第11代ドミティアヌス帝の時代にかけてブリタンニア総督を務めたグナエウス・ユリウス・アグリコラの時代には、グレートブリテン島の最北部を除くほぼ全島を支配したとか。グレートブリテン島がローマ帝国の属州となって約40年後、1世紀末頃のことです。
 しかしアグリコラ総督がローマに呼び戻された後はケルト民族に押し負けるようになり、ローマ帝国はブリタンニア属州の領土を徐々に削られていたようです。

 ハドリアヌス帝の先代、第13代トラヤヌス帝は1世紀から2世紀にかけてローマ帝国の領土拡大に邁進しましたが、彼の死後に即位したハドリアヌス帝は、先帝が征服した領土の一部を放棄しました。このことから、トラヤヌス帝が征服した領土を維持するだけの力が、当時のローマ帝国にはなかったと言われています。
 ハドリアヌス帝は当時各地で起きていた反乱の鎮圧にも心を砕き、即位から4年後には4年かけて帝国北方を、即位から11年後には6年かけて帝国南方を視察旅行に訪れ、内政に力を入れ帝国の安定化を図りました。
 この視察旅行でハドリアヌス帝は帝国最北のブリタンニア属州にも訪れており、ハドリアヌスの長城はこの頃に建設が始まったとされています。建国以来、領土拡大を続けてきたローマ帝国が、その方針を変換し領土拡大政策を断念したことを示す物証であり、それが「ローマ帝国の国境線」として世界文化遺産に指定された理由でもあるようです。

 ハドリアヌスの長城はグレートブリテン島の南北の中央より少し北側、西端はカーライル、東端はニューカッスル・アポン・タインとグレートブリテン島を東西に横断しており、その長さは約118kmだそうです。地図で見るとグレートブリテン島のくびれて細くなった部分にあたるので、当時のローマ帝国が可能な限り少ない時間と労力で城壁を作ろうとしたことが伺えます。それでも完成には10年を要したとか。定間隔で監視所や要塞も併設されていたそうで、かなり緊張状態にあった軍事境界線のようですね。現代日本人の感覚だと、北朝鮮と韓国の軍事境界線にも似てるのかも知れません。
 ただ朝鮮戦争をリアルタイムで経験していない世代なので忘れがちですが、北朝鮮と韓国は休戦協定により「停戦」しているだけで、実は朝鮮戦争はまだ「終結していません」。当時のケルト民族とローマ帝国の間に「休戦協定」などと言った概念は当然なかったでしょうから、もっと血生臭い泥沼の戦いを繰り広げていたことは想像に難くないでしょう。

 在位中は軍部から距離を置き内政に力を注いだハドリアヌス帝が、何故この長城を建設させ強固な防衛線を敷いたのかは分かりません。
 しかし「休戦協定」など無い時代、自分たちの土地を奪われたケルト民族がローマ帝国に対し必死の攻勢を試みていたことは、1世紀半ばに起きたケルト女王ブーディカの反乱などでも明らかです。ハドリアヌス帝が内政に力を注ぐためにも、強固な防衛線を敷きケルト民族への懸念を払拭する必要があったのでしょう。

第二、第三の城壁

 ハドリアヌス帝の没後、後を継いだ第15代アントニヌス・ピウス帝は、即位から4年後、ハドリアヌスの長城の建設開始から20年後に160km北、現在はスコットランド内となるオールド・キルパトリックからフォルカークまでの約60kmを東西に横断する「アントニヌスの長城」を約12年かけて建てさせています。こちらも、地図で見るとグレートブリテン島のくびれて細くなった部分です。
 つまり、ハドリアヌス帝の頃までケルト民族の南下を許していたローマ帝国が、この頃にはそこまで北上した訳です。
 これは、アントニヌス・ピウス帝が即位後まもなくブリタンニア属州の総督に指名したクィントゥス・ロリウス・ウルビクスの功績であるようです。アントニヌス・ピウス帝は先帝の方針を受け継いで内政に力を入れましたが、ブリタンニア属州に関してはウルビクス総督にグレートブリテン島の再征服を命じたそうです。ローマ帝国はアントニヌスの長城が建設される前後の時期、グレートブリテン島における戦勝を記念したコインを発行しているそうで、コインが発行された詳しい経緯は分かりませんでしたが、僅か4年で戦線が160km北上するだけの戦いがあったのは間違いないでしょう。また、ウルビクス提督がアントニヌスの長城の建設を監督した記念碑も残されているそうです。
 あるいはアントニヌス・ピウス帝は、強固な防衛線を敷いてケルト民族に対する守りを固めるより、ケルト民族を駆逐しグレートブリテン島を完全に支配下に置くことで、ケルト民族への懸念を払拭しようとしたのかも知れませんね。知らんけど。

 実際グレートブリテン島の鳥瞰図を見ると、アントニヌスの長城から北側は険しい山地で、そこからハドリアヌスの長城の少し南側まであまり高さのない山地、その南はほとんどが平地と言う地形になっています。ハドリアヌスの長城もアントニヌスの長城も、山地の合間にできた細長い平地(恐らくは川沿いの)に建設されているので、防衛線として機能する地形が本当にそこしかなかったんでしょうね。

 完成したアントニヌスの長城は基礎石の上に土や芝生をかぶせた形のもので、基本石造のハドリアヌスの長城(場所によって建材はまちまちで、土塁部分も後に改修され石造になりました)に比べると城壁の材質も高さも厚みも頑丈とは言い難く、あまり余裕のない中でスピードや再建しやすさ優先の建造だったことが伺えます。記録が残っているかは分かりませんが、あるいは建造中にもケルト民族から攻められ、破壊されたりしていたのかも知れません。
 日本にも「一夜城」と呼ばれるスピード築城されたと伝わる城がいくつかあり、特に木下藤吉郎(豊臣秀吉)の築いた「墨俣一夜城」が有名ですが、いずれも実際には一夜で築かれた訳ではないようです(そりゃそうだ)。ただ、そう大袈裟に伝えられるほどのハイスピード築城だったのは、敵軍の士気を削ぐ意味もあったようで、恐らくアントニヌスの長城も単なる防衛線ではなく、同様の心理的効果を狙っていたのかも知れません。

 しかし20年後、アントニヌス・ピウス帝が崩御するとアントニヌスの長城は放棄され、防衛線としての意義は失ってしまったようです。

 そして2世紀末にはケルト民族との領土争いは激化し、ハドリアヌスの長城を突破されロンドン近くにまで攻め込まれたとか。この頃にロンドン防衛用に築かれた城壁が、現在も「ロンドン・ウォール」としてシティ・オブ・ロンドン周辺で見ることができます。

 ロンドン・ウォールが建設中だった2世紀末から3世紀初頭にかけては、建設に伴う特需景気でロンドンも賑わったようですが、その後はローマ帝国の弱体化もあって、3世紀後半から西のアイルランド島や東のスカンジナビア半島辺りのサクソン人海賊もグレートブリテン島へ攻めてくるようになります。そのためロンドン・ウォールはテムズ川沿いまで延び、その工事は4世紀初頭まで続きました。
 ローマ帝国の弱体化は、3世紀末に即位したディオクレティアヌス帝(数えたところ54人目ですが、複数の皇帝が共同統治した時代が挟まれるため、正確な代数はよく分かりません)が帝国を東西分割した頃から顕著になったのでしょう。そして5世紀初頭、遂にローマ帝国はグレートブリテン島を放棄し、古代ローマ帝国によるグレートブリテン島城壁の建設史は終焉を迎えました。

遺された城壁のその後

 ハドリアヌスの長城、アントニヌスの長城、ロンドン・ウォール。古代ローマ帝国がグレートブリテン島に残した城壁たちは、ローマ帝国が撤退した後も有効活用されたようです。

 最北に位置するアントニヌスの長城は、長い歴史の間に地元の住民が土や石材を「再利用」したため、多くの部分で崩されてしまったそうです。地元の住民が長城に歴史的価値を見出していなかったこともあるのでしょうが、長城が防衛線や境界としての意義を失っていた、と言うことでもあるのでしょう。現在、全域がスコットランド内に存在することからも、つまりローマ帝国に放棄されて以降、国境としての役割は無くなってしまったと。
 しかしスコットランド側では、各地に残る「グリム堤」と呼ばれる土塁のひとつとして、中世の歴史書にも記されているそうです。グリムと言う名称はスカンジナビア半島からやってきた古デンマーク人によく見られる人名だそうで、関連があるのかは分かりませんが、ローマ帝国撤退直後にアングロサクソン人がグレートブリテン島に入植する以前から、「グリム」と名付けられた古代の土塁が多く存在していたとか。

 ハドリアヌスの長城は現在のイングランドとスコットランドの国境からほど近く、全域がイングランド内にありますが、両国の国境に影響を与えたと言われています。
 時期は分かりませんが、恐らくは国境が安定した後、ハドリアヌスの長城も地元の住民により石材が「再利用」されるようになります。中でもイギリス北東部、ニューカッスル・アポン・タインの東にあるジャロウと言う町の「モンクウィアマス・ジャロウ修道院」、現在のセント・ポール(聖パウロ)教会の敷地内にある修道院跡のものが有名です。

 この修道院は、少し南にあるモンクウィアマスと言う町の修道院と一時合併していたため「モンクウィアマス・ジャロウ修道院」だったそうで(現在は再分離したそうです)、歴史学者として知られる尊者ベーダが在籍していた7世紀頃、修道院を再建するときに建材として使われたようです。修道院が破壊された理由は分かりませんが、9世紀頃にはヴァイキングの襲撃により修道院が一時放棄されたそうなので、それ以前から頻繁にスカンジナビア半島のサクソン人海賊の襲撃を受けていたのでしょう。
 その後も「17世紀頃まで城壁は利用されていた」そうですが、具体的に誰がどのように利用していたのかと言う記述を見つけることは出来ませんでした。ただ、1801年にウィリアム・ハットンと言う人物が「プラネットリーズの壁が畑の壁として解体されるのを止めさせた」らしいので、城壁としての利用ではなく、建材としての解体利用だったのかも知れません。
 また18世紀末、1745年ジャコバイト蜂起の鎮圧のためイギリス陸軍を率いた元帥ジョージ・ウェイドが付近の道路を整備した際にも、長城を取り壊したそうです。
 しかし一方で、ハドリアヌスの長城が解体される状況を憂う人々もいました。17世紀初頭にはウィリアム・カムデン、18世紀にはジョン・ホースリーと言った古美術研究家が当時の長城に関する記録を残しているそうです。そして19世紀半ば、ニューカッスル・アポン・タインの市職員だったジョン・クレイトンが長城のあった土地を買い集めるようになり、その保護と修復、発掘調査に尽力したそうです。

 ロンドン・ウォールについては「マーティン・ウォレスのロンドン」の記事でも少し触れましたが、5世紀初頭にローマ帝国がロンドンから撤退した後、ヨーロッパ大陸から渡ったアングロサクソン人がヴァイキングの襲撃を避けるために利用しました。9世紀末に結ばれた協定でヴァイキングの襲撃が一段落すると、ロンドンは緩やかな発展を遂げていき、10世紀末にヴァイキングが大敗を喫するまで、ロンドン・ウォールはヴァイキングに対する効果的な防衛線としてロンドンを守り続けたのです。
 ヴァイキングの脅威が去った11世紀以降、ロンドンの市街地はロンドン・ウォールの外へと拡大しました。防衛線としてのロンドン・ウォールは事実上の役目を終えたと言っても良いでしょう。しかし城壁の内側は「シティ・オブ・ロンドン」と呼ばれるロンドンの中心地として、その後も戦乱が絶えなかったイギリスにおいて最終防衛線としての役割を持ち続けました。
 しかしロンドン・ウォールは、1666年9月に起きたロンドン大火を切っ掛けに、取り壊しが始まります。被災地域の大半がロンドン・ウォールの内側であったことや、防災都市としてロンドンを生まれ変わらせるためには城壁の存在がかえって障害になっていたのでしょう。ローマ帝国時代からロンドン・ウォールに設けられていた7つの関門は当初は修復されましたが最終的には全て取り壊され、城壁そのものは19世紀になっても破壊しきれず、一部が再建された建物に取り込まれました。
 ちなみに第二次大戦中の1940年から1941年にかけてドイツ軍が行ったロンドン大空襲「ザ・ブリッツ」においてロンドンの街が破壊されたとき、取り込まれたロンドン・ウォールの一部が露出したとか。元々が防衛用の城壁だったとは言え、ある意味近現代兵器にすら耐えた、驚きの防衛力です。

古代ローマ帝国が遺したもの

 グレートブリテン島にとって古代ローマ帝国が最初の侵略者だったのは事実です。しかし彼らの痕跡が、その後のロンドンやイングランドとスコットランドの歴史に大きく影響したのも間違いないでしょう。
 古代ローマ帝国は、後世に様々なものを残しました。歴史、政治、文化、遺跡、思想、宗教……文明が進んだ現代から見ても、馬鹿にできないものが様々あります。当時作られた彫像などもそうですし、ハドリアヌスの長城もそうしたひとつでしょう。

 だからこそ多くの人々を魅了し、古代ローマ帝国をモチーフとしたボードゲームも様々作られているのでしょう。重量級(物理)紙ペンゲーム「ハドリアヌスの長城」しかり、基本セットの箱が30cm立方体で知られる都市計画フィギュアゲーム「Foundations of Rome」しかり、18人プレイ可能な文明発展ゲームの極致「大いなる文明の曙(Mega Civilization)」しかり。大いなる文明の曙に至っては、再版時に史実同様に東西分割されてしまいましたけど。
 あ、念のため、「コンコルディア」や「トラヤヌス」、以前記事にした「カエサル!」に「古代ローマの新しいゲーム」みたいな普通のボードゲームもちゃんとありますのでご安心を。


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