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神がいない人生

[詩篇 53:1,2,3]

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。神は天から人の子らを見下ろされた。悟る者 神を求める者がいるかどうかと。彼らはことごとく背き去りだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。

今日の聖書箇所
詩篇53:1〜6

今日は詩篇53篇から恵みをいただいていきましょう。

私たちの人生は考え方によって決まってしまいます。その中でも神はいると考えるか、いないと考えるのかは私たちの人生に決定的な影響を与えることになります。

この詩篇の作者は神はいないと考える者こそ愚かな者であるとし、そのような者は腐敗するしかないと言っています。

どれほど知的レベルが高くても、どれほど優秀な人でも神などいないという者こそ愚か者であると言うのです。なぜでしょうか?

なぜなら自分という存在を考えるなら創造主がおられることがわかるはずだからです。私が存在するということは両親がいることを証明します。同じように私たちの目の前にある物はそれを創造した者がいることを証明します。

人間が作ったあらゆる物を見て、それが自然にできたとか偶然にできたとか言う人はいません。それなのに大自然を見て、また自分という存在を見てそれを創造した者の存在を否定して、偶然の産物だと言うのは愚かなことではないでしょうか?

人間が作った全ての物にはそれぞれ目的があります。車には車、椅子には椅子の目的があるのです。

同じように私たち人間にもそれぞれ創造された意味と目的があるのです。しかしその創造主なる神などいないとすると。私たちの人生には何の意味も目的もなくなってしまい、全く役に立たない者になってしまうしかありません。創造主が明確な目的をもって創造されたのにその目的を知ろうともせず、全くその目的を果たしていかないならそのような者は全く無用の者であり捨てられるしかありません。

[詩篇 53:5]

見よ 彼らは恐れのないところで 大いに恐れた。神が あなたに陣を張る者の骨を散らされたのだ。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられたのだ。

また神などいないと考えるなら人間社会の倫理、道徳も何の意味もなくなってしまいます。神などいないなら倫理的道徳的に生きる理由も全くなく、強い者だけが勝ち残っていく弱肉強食の世界になるだけです。神がおられ、全てのことをご覧になって正しく裁かれることを知っている者が罪を犯すことを恐れ、罪から離れようとするのです。

それゆえ神はいないと考えるなら、罪などなくなり、人間はどこまでも腐敗していくしかなくなるのです。

神はご自身の存在を私たちに隠しておられるのではありません。神は全ての被造物を通してご自身を私たちに明らかにしているのです。美しい花一輪を見て、鳥の鳴き声一つ聞いても、人間は創造主の存在を感じ、知ることができるはずなのです。

[ローマ人への手紙 1:19,20]

神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。

問題は私たち人間の側で神を知ろうとしないことなのです。神を知りたくないという心なのです。神の存在は明らかなのに、あえてそれを否定して神などいないとする頑なな心なのです。それが人間の根本的な罪、原罪なのです。

そのような罪を生まれながら持っている私たち人間は神の特別な恵みがなければ神を信じることができないのです。どんなに理路整然と神の存在が証明されてもそれを認めようとはしないのが生まれながら罪と頑なさを持っている人間の姿であり、そのような私たちが神を真実に知り、信じる者とされたことは神のただ一方的な恵みによることなのです。

神に創造されたのにそれを認めず、神など関係ないと好き勝手に生きてきた者が私たちでした。そのように罪によって腐ってしまった私たちは捨てられて当然でした。捨てられるとは地獄で滅ぼされると言うことです。しかしそのような頑なで強情な私たちのために神はご自身のひとり子イエス・キリストを遣わし、この方に私たちの一切の罪を担当させ、十字架の上で刺し通され、砕かれ、呪われた者となって死なせることで私たちを救ってくださったのです。

その救いの恵みを覚える時に私たちは喜びと感謝の叫び声をあげるしかなくなるのです。

[詩篇 53:6]

ああ イスラエルの救いがシオンから来るように。神が御民を元どおりにされるときヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。

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