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罪滅ぼしではなく十字架が必要です

[へブル人への手紙 7:26,27]

このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。

今日の聖書箇所
ヘブル7:23〜28

今日もヘブル書から恵みをいただいていきたいと思います。

ヘブル書の著者は天の永遠の大祭司となられたイエスがこの地上にいるレビ族の祭司よりどれほど優れているかを続けて教えます。

地上にいる祭司たちには罪と死と弱さという限界があったのですが,天の完全な大祭司イエスにはその限界がありませんでした。

[へブル人への手紙 7:23,24]

また、レビの子らの場合は、死ということがあるために、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となっていますが、イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。

それゆえ地上の祭司たちが捧げる動物のいけにえは不十分で不完全だったのですが,天の大祭司イエスが捧げるいけにはは完全で何一つ不足がありませんでした。

旧約時代,祭司たちは祭壇に動物たちをいけにえとして捧げ,その血を祭壇に注ぎました。しかし永遠の大祭司となったイエスは自分自身をいけにえとして捧げ,ご自分の血を天の聖所に注がれたのです。

地上の祭司たちによる動物の血は一時的な罪の赦ししかもたらしませんでしたが,天の大祭司であるイエスの血は罪の完全な贖いをもたらしたのです。

ある人が到底返済できない借金があったとします。それを一時的に返さなくてもいいと返済猶予されることと,誰かがその人に代わりに借金全部を肩代わりして返済してくれることとは全く違います。

返済猶予では依然として借金は残ったままです。しかし誰かが肩代わりに借金を全額返済してくれたなら,借金は消滅し,借金から完全に自由になれるのです。

旧約時代のレビ族の祭司たちが動物のいけにえの血を捧げても,それは借金の返済猶予程度の効果しかもたらさないのです。動物の血による効果は一時的で不完全なのです。

しかし天の大祭司,永遠の大祭司となってくださったイエスの血は信じる者たちの全ての罪の代価を支払うことができ,その血の効果は永遠で完全だということです。

それゆえヘブル書の著者はユダヤ人クリスチャンたちに天の永遠の大祭司であるイエスから離れて,地上の限界を持つ祭司たちが捧げる動物の血によるいけにえに戻る必要はないし,戻ってはいけないと言うのです。

永遠の大祭司なるイエスがご自分の血をもって成し遂げてくださった贖いは完全で永遠なのです。それゆえ罪の赦し,罪の贖いについて疑いや恐れを抱く必要はなく,またそれについて疑ったり恐れたりしてはいけないのです。

罪を悔い改めてイエス様を信じ,従い始めたのに自分の罪は本当には赦されていなかったのではないかとか疑ったり,信じているのにまた罪を犯してしまう自分を見て自分は本当は救われてはいなかったのではないかと恐れる必要はなく,またそうしてはいけないのです。

そのように私たちを疑わせ,恐れさせ,揺るがし,惑わすのは全て悪魔の仕業なのです。罪を悔い改めて,イエス様を信じ従い始めた者たちにどんな問題が許され,どんな苦難が許されたとしても,それはもはや罪の罰ではないのです。もう罪の刑罰はイエス様の十字架で完全に終わったからです。

イエス様を信じ従う者たちに許されていく苦難や問題は私たちと聖め,強め,霊的に成長させていくための愛の訓練なのです。罪が赦されていないからそんな苦難が起こるとか神に愛されていないからそんな問題が起こるのだとか決してそのように考えてはいけないと言うことです。そのように考えさせるのは全て悪魔の窓わしであり,それは悪魔の嘘なのです。

もし永遠の大祭司となったイエス様の十字架の贖いが不完全であるとしたら,私たちは自分の罪滅しのためにあれもしなければ,これもしなければとなっていくのです。そしてそのように頑張っているのに苦難や問題が起こったり,あるいは解決しなかったら,もうダメだと絶望して信仰を捨てるか,あるいはもっと頑張るかのどちらかになってしまうでしょう。

苦難や問題を自分たちの信仰的な行いでなんとか解決しようとすること,これは自分は神と取引きできるという律法主義であり,恐ろしい不信仰であり高慢なのです。罪の赦しのために私たちができることは何一つありません。私たちにできることは永遠の大祭司となってくださったイエスの十字架の贖いをただ信じて,その恵みを信仰によって受け取ることだけなのです。

永遠の大祭司イエスの十字架と復活によって信じ従う者たちの過去,現在,未来の全ての罪を完全に赦し,罪の問題を完全に解決してくださったことを信じるなら,もはや神の愛と善意を疑うことはできなくなるはずであり,もはや二度と疑ってはならないのです。

それゆえ神は私たちに許されていくどんな苦難も困難も問題も全ては私たちをますます聖め,強め,成長させていくための訓練として用いられ,どんな苦難も必ず私たちの益になるように愛と摂理の御手をもって導いてくださるのです。永遠の大祭司なるイエスは弱く,鈍く,揺れ動く私たちがそれを悟り,信仰に堅く立ち,信仰によって前進して勝利することができるようにと今も私たちのためにとりなし祈り続けてくださっているのです。

[へブル人への手紙 7:25]

したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

今日の祈り
主よ,十字架の贖い,十字架の愛が完全であることを深く悟らせてください。主の愛と善意を疑わせ,揺り動かす悪魔に主の御血と御言葉によって勝利させてください。

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