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人間の教えと神の言葉

[マルコの福音書 7:5,6,7]

パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』

今日の聖書箇所
マルコ7:1〜13

今日もマルコ福音書から恵みをいただいていきたいと思います。

イエス様の時代の宗教家たちはいろいろな宗教的な戒めを数多く守っていました。旧約の律法をどんどんと拡大解釈して、律法にはない戒めも数多く作り出して、それを言い伝え、伝統として神の言葉と等しいものとして扱っていたのです。

その中に食事の前に手を洗うという戒めもありました。律法には祭司たちが汚れたものに触れてしまったなら聖なるものを食べる時に手を洗うように定めていたのですが、それを拡大解釈して全ての人が食事の前に手を洗わなければならないという戒めを作り上げていたのです。

[レビ記 22:5,6]

あるいはすべて人を汚す群がるものに触れる者、または、いかなる汚れであれ人を汚れさせる人間に触れる者もそうである。これに触れた者は夕方まで汚れる。その人は、からだに水を浴びずに聖なるものを食べてはならない。

イエス様はそれらの言い伝え、伝統に縛られることはありませんでした。それらは神の言葉ではなくただの人間の言い伝え、人間の教えに過ぎなかったからです。

そしてイエス様はそれらの宗教家たちはそういった人間の言い伝えによって神の言葉を無にしていると厳しく批判されたのです。

[マルコの福音書 7:9,10,11,12,13]

またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」

十戒には父と母を敬えという律法があったのですが、当時、父と母を扶養できる財産がありながら、それは神への捧げものにしますと言うなら扶養しなくてもいいと言う戒めを作り上げて、律法を骨抜きにしていたのです。

イエス様は宗教家たちが作り上げた戒めによって神の言葉がないがしろにされていることを明らかにされ、宗教家たちの偽善を暴き、厳しく批判されました。

イエス様はこれを通して信仰と宗教というものの違いを明らかにされておられます。信仰とは神の言葉を信じ、神の言葉に従うものであるのに対し、宗教と言うのは人間の教えを信じて、従うことであると言うことです。それらは似ているようで全く違うのです。

なぜなら第一に神の言葉、神の思いと人間の教え、考えとは全く異なるからです。それは全く違うのです。それは正反対であり、天と地ほども違うのです。

[イザヤ書 55:8,9]

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

それゆえ私たちがいくら考えても、推測したり、予想したりしても神の御思いを知り、理解することはできないのです。神の御思いはただ神が啓示してくださる時に初めて知ることができるのです。

それゆえ私たちは謙遜に神にその御心を啓示していただくように恵みを祈り求めるしかないのです。

第二に罪を持つ人間は神の言葉を自分たちの都合のいいように変えてしまうのです。

宗教家たちは父と母を敬えという律法をそれを守らなくてもいいように骨抜きにしてしまいました。私たちもまた神の言葉を前にしても、それを自分に都合のいいようにどこまでも変えてしまうことが多くあるのです。

そのようにして神の言葉を守っていると自己弁護し、自己満足の中に落ち込んでしまうのです。

第三に罪を持つ人間は神の言葉を自分が悔い改めるために用いるのではなく、人を裁き罪に定めるために用いてしまうことが多いのです。

罪を持つ人間は神の言葉あるいは神の言葉だと思っているものを用いて人を裁き、自分はそれに比べて神の言葉を守っていると自己満足し、自己義認したいものなのです。

神の言葉をそのように自分中心に用いていくものが宗教なのです。それに対して聖書の信仰とは神の言葉をそのまま信じることなのです。謙遜に神の言葉を求め、与えられた神の言葉を幼子のように信じ、神の言葉を自分に適用して悔い改め、神の言葉に従っていくことなのです。

宗教は神の言葉を自分に都合にいいように変えてしまうのですが、聖書の信仰とは神の言葉によって私たちが造り変えられていくことを追い求めることなのです。

その時、神の言葉は霊となりいのちとなり私たちを生かし、強め、癒し、建て上げていくのです。その時、神の言葉は御霊の剣となって偽りを明らかにして私たちを悪魔の惑わしから解放していくのです。

神を信じている者とは神の言葉に恐れおののく者なのです。そのような者神は目を留めてくださり、その信仰に報いてくださるのです。

[イザヤ書 66:2]

これらすべては、わたしの手が造った。それで、これらすべては存在するのだ。──主のことば──わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。

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