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真理の力

[マルコの福音書 14:61,62,63,64]

しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。

今日の聖書箇所
マルコ14:53〜65

今日もマルコ福音書から恵みをいただいていきましょう。

イエス様に対する不当な裁判の場面です。

妬みによってどうしてもイエス様を殺そうとしていた宗教家たちはイエス様に対する偽証を集めるのですが、偽証は一致することなくイエス様を死刑にする証拠がなかったのです。

イエス様はどのような偽証がなされていてもそれに対して一切、反論することも自己弁護することもありませんでした。何を言われても沈黙されたのです。それもまた聖書の預言の成就でした。

[イザヤ書 53:7]

彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

イエス様は一点の罪もなかったのに、あらゆる罪の告発を黙って引き受けてくださったのです。何のためでしょうか?私たちが受けるべきサタンによる罪の告発を全て身代わりに引き受けてくださったのです。

イエス様がこの不当な裁判で語られたことはご自分が神の御子キリストであり、神の右の座に着くべき神と等しい者であると言うことだけでした。

そしてこれが神聖冒涜の罪に当たるとしてイエス様は死刑にされていくのです。しかしこれこそが真理であり、事実でした。イエス様は真理のゆえに殺されたのです。宗教界の背後にいた悪魔はこの真理をどうしても否定したかったのです。そしてイエス様を十字架につけることでそれに成功したかに見えました。

しかしイエス様が十字架で死んで三日目に復活されることでイエス様こそ神の御子キリストであり、神ご自身であることが証明されてしまうのです。

真理はやがて必ず真理であることが証明されていくのです。どんなに偽りが勝ち誇っているように見えても、真理など全く無力に思えたとしても、やがて必ず真理であることが明らかになっていくのです。

そのことを信じることを信仰と言うのです。

反対に偽りはその時にはどんなに力を持ち、勝ち誇っているように見えてもやがて偽りであることが明らかになり、消えていくのです。

私たちが信じるべきものは真理であり、私たちが語るべきものは真理なのです。そうしていくならばやがてそれが真理であることが証明される日が必ず来るからです。

それでは真理とは何でしょうか?それこそイエス・キリストご自身であり、神の御言葉なのです。

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