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神秘主義という罠

[へブル人への手紙 1:3,4]

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。

今日の聖書箇所
ヘブル1:1〜14

今日からヘブル書から恵みをいただいていきたいと思います。

ヘブル書は迫害と苦難の中にあったユダヤ人クリスチャンたちに書かれたものです。まだエルサレムに壮大な神殿があった60年代に書かれたものと思われます。著者は今も分かりませんが,聖書と律法,ユダヤ教に精通していたユダヤ人の教会指導者であったと思われます。

この手紙が書かれたのはユダヤ人クリスチャンの中から信仰から脱落し,ユダヤ教に戻ってしまう者たちが多くいたからです。そこにはいつまでも続くように思われた同胞のユダヤ人たちからの迫害と苦難が背景にありました。

ユダヤ人クリスチャンたちの中には苦難に疲れ果てて,嫌気がさして,もうやってやれないよ,ユダヤ教に戻って楽になりたい!と思う人々が出始めたのです。そのような人たちに「信仰を捨ててはいけない!誘惑に負けてはいけない!信仰を捨てるなら今まで築き上げてきたもの全てが失われてしまう!」と切なる愛をもって警告し,戒めているのがヘブル書なのです🥲

著者はそのためにまず御子イエスの絶対性,優越性について語り始めるのです。

ユダヤ人の中にはモーセの律法は天使を通して与えられたという伝説があり天使礼拝をするような神秘主義者たちもいたようです。それゆえイエスもそのような天使と同じような存在だと考えるユダヤ人クリスチャンも出たのです。

著者はそのような人たちにまずイエスが天使とは全く違う神の御子であり,神の御子は父なる神と共に創造主であり主権者である神ご自身であることを語るのです。

[へブル人への手紙 1:10,11,12]

またこう言われました。「主よ。あなたははじめに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは、衣のようにすり切れます。あなたがそれらを外套のように巻き上げると、それらは衣のように取り替えられてしまいます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」

そしてイエスは天使と同格ではなく,天使から礼拝され,天使に仕えられている神の御子であることを教えます。

[へブル人への手紙 1:6]

そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」

ヘブル書の著者はこのような創造主,主権者である神の御子イエスにつながる者となったのに,そこから離れて再びユダヤ教に戻ってしまうことがいかに愚かなことなのかをまず教えるのです。

私たちを惑わすものに神秘主義というものがあります。神秘的なものであれば何でも信じてしまうというものです。天使が夢の中に現れてこんなメッセージを伝えてくれたとか,私は天国に行ってこんな体験をしたとか,そういうことにのめり込んでしまう人がいます。

カトリック教会では聖母マリアにも祈り,天使にも祈り,聖人たちにも祈ります。聖母マリアの像や絵もあり,その像や絵の前で祈ることもあります。そのようにしていると神秘的な恍惚感を感じることもあるのでしょう。また人間の宗教心が満足させられることもあるのでしょう。

しかしそういった神秘的な体験,神秘主義で人が変えられることがあるのでしょうか?使徒パウロはこう言っています。

[コロサイ人への手紙 2:8,9]

あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

[コロサイ人への手紙 2:18,19]

自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。

神の御子イエス・キリストで十分なのです。その他のものはどんな霊的な存在であろうと必要ないということです。神の御子イエス・キリストが道であり真理でありいのちなのです。神の御子イエス・キリストの十字架の血の贖いを通してのみ私たちは救われ,その血により頼む信仰のみによって天の父の御前に進み行くことができるのです。ヘブル書はこれから徹底的にそれを強調していくのです。

信仰生活において求めるべきことは何かの神秘的な体験をすることではなく神の御子イエス・キリストを知ることであり,神の御子イエス・キリストにしっかりとつながることであり,神の御子イエス・キリストに似たものへと変えられていくことであり,神の御子イエス・キリスト,すなわち神の言葉にしっかりと立つことなのです。

それにつながらないどんな神秘的な体験,霊的な体験も全く意味を持たず,それらは無価値であるということです。

ヘブル書が書かれていた当時,エルサレムにはヘロデ大王が修復した壮大な第二神殿が建っていました。そこでは毎日,いけにえが捧げられ,数々の盛大な宗教儀式がなされていました。ユダヤ人クリスチャンの中にはそこに戻ろうとする人たちがいたのです。それらは人々の宗教心や神秘主義を満足させるものだったからです。

しかしヘブル書が書かれてから10年もしないうちにそのエルサレム神殿はローマ軍によって崩壊させられてしまうのです。主が預言された通りになったのです。

私たちが何に土台を置いているでしょうか?神秘的な体験や目に見える神殿,儀式に土台を置いているならそれは崩れてしまいます。神の御子イエス・キリストをその御言葉に土台を置く者となりたいものです。

今日の祈り
主よ,神の御子イエス・キリストを知ることができる恵みを与えてください。イエス・キリストから引き離すあらゆる誘惑に勝利させてください。

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