仏(悟りを開いて解脱した人)の死に方

わたしは動物園に行ってサル山を見ると、いつも、そのサルたちの中に、自分がゐるので驚いてしまふ。

安全安心の柵の中で、食べ物を十分に与へられるサルたちに出来ることは、食べることとセックスしかない。メスが育児放棄しても動物園の管理者が母に愛されなかった子ザルを哺乳瓶を駆使して育ててくれるといふ世界だ。

それでも、誰かが見物しながらつまんでゐたお菓子などを(禁止されてゐるのに)サルたちに投げると、サルたちはいっせいに立ち上がって、飛びついてくる。
なにか、夢中になれるものをサルたちも探してゐるやうだ。

動物園のサルたちは、現代の日本人の象徴だ。
何につけても本気になれない。
生きる実感が無い。
平和憲法のもと、
日常から死を排除して安心安全を確保したら
後はほんの少しの不安がきざしても金切り声を上げて対策を求め、
倦怠感を紛らはしてくれる不満のたねを芸能やスポーツや時事ネタや政治に求めながら、
曖昧な日本を曖昧な個人として生きるしかない。

誰を見ても同じサル顔をしてゐて区別がつかない。
だからこそ、口から出るのは自分のことだけなのだ。
黙ってしまへば他のサルと区別がつかなくなるのがわかってゐるから、
今日もXに自分がここにゐると書き込むのだ。

かういふとき、わたしは、いつも、三島由紀夫が四十歳を過ぎた頃に受けたインタビューで語ったことを思ひ出す。
三島由紀夫氏は、このとき、四十代にはいったばかりなのに自らライフワークと公言する四部作『豊饒の海』に取り組み始めてをり、その完成は六、七年後になるだらうと言ってゐた。つまり、五十に近くなった頃だ。

それで、三島氏は武士としての死を諦めて、ライフワークの完成の後は、引退して残りの時間でゆっくりと定家の伝記を書かうと思ってゐた。小説家としては「生きて生きて生き延びなければ、芸術の完成なんてない」と死の直前のインタビューで語ったとほり、いったん武士としての死を断念したら、あとは、文のためにひたすら生きるしかないと思ってゐた。

後に三島由紀夫氏は心境を一転させて「文武両道」を掲げる。それは、1970には日本に革命が起きる、と多くの人が口にし始めた時だった。
通常なら絶対に得られない文と武を両立を(死の瞬間に)成就させる可能性が、時代の状況の中に見えて来たように、三島由紀夫氏には、思へたのだ。

けれども、まだ、そんな心境ではなく、自分は若さを失っても生きていくだらうと諦めたとき、そんな心境のときに語ってゐるのが、次のことだ。


(今の若者たちはさまざまな方法でスリルを求めてはゐるが)それでも、死が生の前提になってゐるといふ緊張した状態には無い。
さうやって仕事をしてをりますと(=生きて日々の暮らしを送ってゐると)、なにか、生の倦怠といふか、
ただ、人間が自分の為だけに生きてゐるといふことにはイヤシイものを感じてくるのは当然であります。

人間の生命といふのは不思議なもので、
自分の為だけに生きて
自分為だけに死ぬほど、人間は強くはない


人間は、なにか、理想なり、何かのためといふことを考へて生きてゐる。
生きるにしても、自分の為だけに生きるのはすぐ飽きてしまふ。
死ぬにも、何かのためといふのが必ず出て来る。

それが昔いはれた大義といふものです。
(中略)
しかし、今は、大義が無い。
それは、民主主義といふ政治形態の中では大義なんてものは必要が無いから、当然なんですが、
それでも、
こころの中に自分を超える価値が無ければ生きることすら無意味になるやうな状態が(この民主主義の日本にもやはり)無いわけではない。

三島由紀夫氏は、
「人間は、大義(生きる意味死ぬ意味)を求める動物だ」
としながら、さう言ひながら、自分は、名誉の垢が溜まっていってその中で美しくない死を死ぬのだらうと、このインタビューを締めくくってゐる。

三島由紀夫氏によると、美しく死ぬとは肉体が老いる前に大義に殉じることだ。
そして、美しくない死のことを
若さを失ひ老いていきながら過去の名誉を身の回りに積み重ねて、その堆積の真ん中に敷いた床の中で大小垂れ流しなって死ぬこと、
と三島氏は明快に定義してゐる。

死ぬのに美しいも美しくないもあるものか。
さう断じて、名誉を(つまり他人からの承認を)今日も集めながら、やがて、淡々と大小垂れ流しで死んでいける人は、幸せだと羨むばかりでなく、仰ぎ見て手を合はせたくなるほど、わたしは、尊敬する。

それこそ、悟りを開いた仏陀の死に方だったからだ。
仏陀は布施としてもらった食事に当たって
下痢が止まらなくなって死んだのだ。

おそらく信者たちは、十字架上で神を罵るキリストを見た信者たちのやうに、仏陀の美しくない死にざまにひどく狼狽して、それから、やはり、キリストの崇拝者たちと同様、けんめいに、入滅や復活といった(子供だましの)物語を紡ぎ出そうとしたのだらう。

さういふ物語が無ければ、大義の無い人生を生きていくことはできない。
だから、かういふ物語はいつの世でも人気があったし、今後は、ますます人気が出るだらう。

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