BLドラマ論

いはゆる<茶の間でみるテレビ>で放映されるBLのドラマは、俳優の男性は同性愛者ではない(はずだ)。だから、そのドラマが完全にフィクションであることが保証されてゐて、私たちは、BLドラマを、祖父母や子供もまじえて、家族そろって楽しむことができる。

普通の(と言ったらダメなのかしら?異性愛者の)男女の恋愛ドラマは、役者として演技してゐる男優と女優は現実に男女として恋愛をする可能性があり、実際にさういふことは起きてゐる。
男女の恋愛ドラマで、キスシーンが出て来ると、血縁関係にある異性と共に見ている場合、多少とも戸惑ひを覚えるだらう。ドラマの中の男女が肌を見せて抱擁するなどとなると、近親関係を禁ずる本能がアラートを鳴らし始め、なにかいたたまれない気持ちになるに違ひない。

異性愛者の男優が演じる同性愛は、男優の歌舞伎役者が女形になってぬれごとを演じるのと同じで、性愛が芸術を目指して洗練されることになる。

芸術には好色ものがあるが、それが好色と呼ばれるのは、ポルノと同様、好色ものには(たとへわずかにしろ)身体性の感覚(性欲)に頼る部分があるからだ。
歌舞伎のぬれごと、そして、ドラマのBLは、好色もの(芸能・文芸・絵画など)の野暮とがさつすらも洗ひ落として、好色ものの得られない透明性を獲得する。
だから、身体性の感覚(性欲)をどれだけ刺激できるかに存在価値のあるポルノグラフィーとは対極に位置することになる。

このやうなBLは、異性愛者の男優たちが演じるだけでなく、女優が男性同性愛者を演じても、十分に成り立つだらう。
その場合、女優は異性愛者でなければならない。同性愛の女性が混じると、BLドラマの背後にレズビアンを透かして見ることによって、好色ものに脳内変換することが可能だからだ。

ポルノとしてのBLも、もちろん、可能である。
その場合、出演者は女性であってはならないし、男優はすべて同性愛者でなければならない。

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