性別

性別にとらはれない生き方といふ時、現実にどんな顔をしてゐる人なら、そんな生き方をしてると言へるのだらうかと考へてゐたら、
片桐はいりさん
の顔が浮かびました。
あの方は別に性別を超越して生きやうとしてゐるわけではないと思ひますが、性別にとらはれてない顔の持ち主だとわたしには思へます。

あの人の顔は、女の人の顔の原型からひどく遠いし、さうかと言って、男みたいだとも感じられません。
あの人の顔は、人間として持ち得る限りの品性に溢れてゐます。真面目な顔とはあの顔だと思ひます。
これは、あの人の顔には官能性が限りなく薄いからだと思ひます。生の顔ではなく、無機質な材質からなる作りものの顔であるかのやうな感じがある。精神性がむき出しになった顔、と言ってもいいと思ひます。

大理石で裸体を掘ると、なんであれ芸術的な雰囲気になるのは、石には生物の官能性を捨象する力があるからです。肉体を生み出してゐる抽象的な構造が石によって見えてくるのです。
性別にとらはれないことが異性の服を着たり異性の言動をとることだったりしたら、誰も説得できない。自分とは異なる性にとらはれてゐるとしか見えないからです。
ユニセックスといふ言葉にも、今では男女兼用といふ意味しか無いと思ひます。
性別にとらはれないなら、官能性を手放する必要があります。また男女どちらでもない性器を備へる必要もあります。肉体の交接のために性別が生じてをり、それが二つの異なる性器といふ帰結になってゐるからです。

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