プロローグ~あがり症歴=年齢?~

人前に出ると手足が震える。
16年間本気で続けてきたピアノは、薬を飲まないと震えてまともに弾けないほどに。
本番前はご飯も食べられないし、吐き気もする。


私は正真正銘のあがり症で、これに何年も悩まされた。


努力量が足りないのだと、無茶をして練習してみた。あがり症の本を読んでくまなく実践してみた。
絶対大丈夫だよ、と舞台に向かう友達を懸命に励ました。ちっとも大丈夫じゃない、怖いと喚いている自分に、必死に言い聞かせるように。


私はいつになったら、何をしたら治るのだろうか。
ずっと分からなかった。あの子はなぜ、あんなにも堂々と出来るのか。なぜ自分は、こんなにも出来損ないなのか。
この認知こそが何よりも大きな勘違いなことにずっと気づかないでいた。


成功や認められるかどうかで自分の価値が左右されるという、大きな勘違いに。


大学生になり、音楽やそれ以外においても様々な経験をし成長した。ジャーナリングを通した自意識の分析、実生活での認知の矯正を始めてからというもの、あれだけ私を苦しめていたあがり症は快方に向かいつつある。


人生の中で他者から下される評価は、その場その瞬間の自分のたった一部分のことであり、私自身の価値を決定づけるものではない。
生きていく上での失敗も、私自身の価値を下げるものではない。


ダイヤモンドはガラスケースで保管されていようと、公園の土に埋まっていようとダイヤモンドに変わりはない。
何に挑戦しても、どんな失敗をしてもいい、私自身の価値は、あなたの価値は変わらない。



他者にどう思われるかの不安をずっと抱いていた。
しかし、他者からの期待も、心無い言葉も、それはその人の課題であり、私の課題ではない。実は私自身には少しも関係ないのだ。



結局、ずっと私の失敗を笑っていたのは、私の失態を罵倒していたのは、この世界で私だけだったみたいだ。



この荷物を下ろしてからというもの、あれだけ怖かった人前が、舞台が今は人生の楽しいスパイスになっている。



あがり症は敵ではない。どれだけ探しても、敵なんて初めから存在していない。
何に恐怖しているのか、なぜそう思うのか。幼少期の経験?誰かからの言葉?果たしてそれは、「自分の生きたい人生」において、本当に正解なのだろうか。万人に当てはまる正しさなんてものは存在しないのに。


自分の根本の認知から見直して書き換えを始めることで、生きることが、表現することが、ふっと楽になる時が来るかもしれない。



大学生活でもうあと数える程しかない本番で、さて私は、何を伝えようかな。



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