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受けとる 〜私が本を読む理由〜

母校創立周年記念誌を買い、
割と真面目に読んだ。
講演録や礼拝の説教録も掲載されている。

私は承認欲求が強く、
目立ちたがる方だ。
半分まぐれで入って出た『いい学校』といえる母校で、
講演に招かれ、
全生徒、全教職員の前で話すなんて、
栄誉だよなぁ。
そう思う。

では私は何者なのか?

数年前までは一介の国語教師だった。
万年ヒラ担任で管理職でもなんでもない。

今は、2冊の自費出版を経て文学賞に応募を続けている自称物書きだ。
同じ学校の卒業生にはプロ作家が何人もいる。

私が演壇に呼ばれるはずもない。

そんな自分の人生には、
他人に何かを語れるような価値はないのか?
段の下から聴くだけの人間は、壇上の有識者に劣るのか?

演壇に立っている人はきっと、自分が『上』だなんて考えていない。
私が劣っているとしたらその所以は、卑屈さ、自信の無さにあるのだろう。

そして発信するのと同様、『受信』も大事だ。
英会話を学ぶ者やカウンセラーにも、
『聴く』力が必要とされる。

読んだ講演録の中の、聖路加の日野原重明氏のお話が素晴らしかった。

『痛みを知ると人の痛みを思うことができる。
自らの名声のためでなく、人のために奉仕せよ』
と私が纏めてしまうと響きがえらく薄れるが、
日野原先生の本はたくさん出版されているであろうから、
是非手に取ってみて下さい。

多くの同級生同様、
我が強くて生意気な女だった。
聴くより話す方を好んだ。
そんな私も、
確かな力量を持つ語りや記述には食いつき、反芻する。
飲み込むのが勿体無いほどだ。

マザーテレサのようにはなれない。

自分を立たせるバランスを崩さずに人に資するにはどうすればいいか。
未だ模索中であるが、
そんな人生を絞り出すには、
まず『受けとる』のがきっと大事だ。

だから私は本を読む。

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