山本芳久『世界は善に満ちている』(新潮選書、2021年)を読んで。

 本書は多数のトマス・アクィナスについての著書を出されている著者による新たなトマス論である。とはいえ著者の著書はそれぞれの叙述が相補うようにして記されており、本書もその例に漏れず今までの著作を補う一冊と言える。あとがきに記されているように、一般向けに著者が著した『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書)と『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)の二冊を難しいと感じる読者に向けて書かれている。
 本書の特徴は「哲学者」と「学生」の対話を通して『神学大全』の様々なテクストが具体的に引用されていることにある。主題に応じて選ばれるテクストを読むことを通して読者に『神学大全』の豊かさの実例を提示していくのである。多数の引用が用いられるのは前二著でも見られる特徴ではあるのだが、本書は「哲学者と学生」の対話の中で、より詳細に読解の肝となる部分を掘り下げてくれることが印象的である。本文でも述べられるように、中心的な話題は人間の感情をめぐるものである。『肯定の哲学』において理論的な枠組みが提示されていた内容を具体的な経験の諸相を照らすような仕方で提示してくれるのが本書なのである。
 本書は『神学大全』の様々なテクストを読み解くことを通して、その中で引用されるアリストテレス、アウグスティヌス、偽ディオニュシオス・アレオパギテース、そして聖書がどのような仕方でトマス自身の思考に関わっているのかがありありと提示される。そしてその洞察が私たちの経験を豊かに捉え直す可能性を有することを伝えてくれる。中でも印象的なのはアリストテレスのアクラシアとアコラシアを巡って岩田靖夫氏の『アリストテレスの倫理思想』に言及する箇所である。ここには、少し踏み込んでアリストテレスのテクストに触れる読者にとって躓きとなる部分への他書にはなかった配慮を感じるのである。参考文献として挙げられているだけでは通り過ぎてしまう本が本文に具体的に引かれていることを通して研究の世界へとも誘われるのである。
 世界は善に満ちている。そのことは私たちの内なる愛を気づかせ、世界をより豊かに受け留めるきっかけをもたらすのである。本書を通して豊かに開かれる世界は、私たちが本を読むことの意味をも問いかける。私たちが生きている世界をより豊かにする様々なヒントが『神学大全』の中に、哲学書を読み解くことの中に隠されていることを本書は明らかにしてくれる。具体的な、時には鋭い「学生」の問いかけへの「哲学者」の答えを通して、読者は哲学することの豊かさを感じられることと思う。哲学は自分にとって縁遠いと思う読者にこそ、手に取ってもらいたい一冊である。


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