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りょうおもい

扉を開けると、そこに夏月先輩はいなかった。
いつも僕より早く来て、「おそいよ、水葵くん」なんてニヤニヤしながら言ってくるのに。僕は不思議に思いながら背負っていたリュックサックを降ろした。
先輩がいないと狭い部室でも広く感じる。決して太っているとかそういう事ではなく、先輩の存在感がそれだけ大きいという事だ。先輩の定位置である椅子が空いているのが不思議な感覚だった。
成績優秀な先輩の事だから補習でいないという訳ではないと思う。連絡もなく遅れるような人ではないし、先生に何か頼まれ事でもされているのだろうか。
どうせ今日も重要な活動の予定は無いし、気長に待つことにしよう。いつもの意趣返しに、「遅いですよ、先輩」って言ったら先輩はどんな顔をするだろうか。怒るかな、とも思ったが、先輩ならへらへらしながら謝ってきそうだ。
そんなことを考えながらすっかり定位置となったロッキングチェアにそっと腰掛ける。年季が入ったそれは腰掛けると軋むような音がした。いつからあるのかわからないそれは丁度2つあり、部活の時に僕たち2人の定位置として使っていた。ゆらゆらと前後に揺れる感覚が心地よくて、いつも眠くなってしまう。
……。…………。
いけない、うとうとしてしまった。今日は先輩を待っているのだから、寝てしまっては格好がつかない。
静かでゆったりとした空気のせいで、ぬるま湯を揺蕩うような心地良さに包まれていく。ちょっとだけなら、寝ちゃってもいいかな。いいよね。
僕は眠気に抗うのをやめて、そっと目を閉じた。

「……くん、伊藤くん!」
目を開けて、ぼうっとしたまま自分を揺り起こした人物を見つめる。この子、だれ、だろう……。
次第に意識がはっきりしてくると、思った以上にぐっすり眠ってしまっていた事と、声を掛けてきたのが夏月先輩でないことに混乱してしまう。
目の前の女子は何故僕の名前を知っているのだろう。
全然見覚えがないし、夏月先輩の知り合いだろうか。
僕は目覚めたばかりの緩慢な動作で目元を擦る。
目の前の女子の上履きの色は先輩と同じだった。と、いうことは、先輩と同じ2年生なのだろう。
何故か目の前の彼女は焦ったような表情をしている。
ゆらゆら揺れる瞳と、蒼白な顔面。走ってきたのだろうか、息を切らして、額には汗を浮かべている。
「どうしたんですか……?」
あまりに必死そうな様子に、恐る恐る訊ねてみる。
その態度が気に食わなかったのだろうか、彼女は一転、表情を失った。
「……そっか。なんにも、知らないんだね」
絞り出すような、低く、震えた声。
泣きそうに歪められた顔。
蔑むような、失望したような視線が僕を射抜く。
その視線にはまるで温度というものが感じられず、緩やかな恐怖が背筋を這うような錯覚に襲われた。
「夏月、追い詰められてたんだよ?」
小さな声が頭の中にじわりじわりと染み込んでくる。
嫌な予感にゆっくりと指先が冷たくなっていく。
言葉を紡ごうとする唇の震えがおさまらない。
「な、なつき、せんぱいは……」
自覚していたよりもか細く、頼りない声が出た。
ごくりと唾を飲み込み、呼吸を整え直す。
「夏月先輩に、……何か、あったんですか」
明瞭に発声するまでに、幾許かの時間を要した。
僕が話し終えるまで黙っていた彼女は、その言葉にこくりと頷く。未だに鋭いその目には、溢れかえる程の負の感情が渦巻いているように感じた。
「伊藤くんのせいで、夏月は飛び降りたんだよ」
さぁっと血の気が引いていくのを感じる。
僕のせい?飛び降りる?
言葉の意味が上手く頭に入ってこない。
飛び降りた、というのは、つまり。
最悪の想像が頭の中を駆け巡った。
ぐちゃぐちゃに折れ曲がった四肢と赤い色。
僕はその想像を振り払うように声を絞り出した。
「先輩は……どうなったんですか」
彼女は苦々しい表情でポケットからしわくちゃになった封筒を取り出した。そしてその中から乱雑に便箋を抜き取り、僕に突きつける。
「病院に運ばれた。遺書もあったんだよ」
生きているとわかってひとまずほっとした僕は、差し出されたシンプルなデザインの便箋を受け取る。
便箋に綴られた流麗な文字は、紛れもなく先輩のものだ。微かに震えたような筆跡に心が痛む。
ちらりと目の前の彼女の様子を窺うと、「早く読め」とばかりに顎をくいっとやった。
恐る恐る便箋に目を走らせる。
『水葵くんにはわかってもらいたかった。迷惑かけてごめんね。君のことを好き好き言って困らせていたことも。構ってほしかったんだ。私は君の事がだーいすきだからさ。今度は本気だよ。さようなら』
文字列を意味として捉えるのにやや時間がかかった。
今度は本気だよ。
今度は。
こんど、というのは。
心臓が早鐘を打つ。それと同時に胸がぎゅう、と締め付けられるような痛みを感じる。
眼前暗黒感に襲われながら、僕は昨日先輩に言ってしまった心無い言葉を思い出した。

「そんなの聞き飽きましたってば」
苛立って思わず冷たい言葉で突き放してしまう。
ハッと我に返って、夏月先輩の顔を見た。
先輩の表情は変わらない。いつもの冗談を言っている時と同じ表情で僕をじっと見つめている。
先輩は薄らと笑みを浮かべた。先輩の笑顔なんて何回も見ているのに、何故か奇妙な違和感を覚える。
もう夏はとうに過ぎたというのに、じんわりと汗が滲む。それなのに、この部屋の空気は凍りついたように冷たく感じた。
僕はその感覚を振り払うようにもう一度吐き捨てる。
「どうせ死ぬ気なんてないのに、僕相手に病んでるアピールするのやめてください。……鬱陶しいので」
恐怖に抗うべく、意識して先輩を睨みつける。
……数秒の沈黙。
天使も通り過ぎるのを躊躇うような異様な空間だ。
汗で背中に張り付いたシャツの感触が気持ち悪い。
先輩と見つめあって、この時間が永遠に続くような錯覚を覚え始めた頃、先輩はてへっと笑った。
「ごめーんね?  水葵くんをからかうの、楽しくって」
夏月先輩は眉を下げて申し訳なさそうにそう言った。
その態度に、急に毒気を抜かれたようになる。
拍子抜け、といった感じだ。
「あ、はい……。こちらこそ、すみませんでした」
軽く頭を下げると、先輩は僕の頭を優しく撫でた。
その小さな手でくしゃり、と髪を掻き回される感覚に安心する。ほっとして小さくため息をついた。
よかった、先輩が優しくて。
酷い事を言ってしまい、嫌われたかと思った。
結局僕は先輩の優しさに甘えてしまうんだ、と自分のことを情けなく思う。
徐に先輩は僕の頭から手を外した。体温が離れていく感覚に、小さくなりつつあった不安を煽られる。
思わず離れていく指先を目で追った。先輩は、窓際に置いてあった自分のリュックサックを背負う。
やや歪に変形したそれは、先輩に長いこと大切に使われているのだろう。霞がかったようにぼんやりとした深緑色は先輩によく似合っている。
「……どうしたの、ぼんやりして。帰るよ」
先輩は僕に目もくれず、部室を出ていく。
時計を見ると、いつも解散する時間よりも少し早かった。もう少し部室にいてもいいかな、とも思ったが、先輩と一緒でない帰り道が想像できない。
僕もリュックサックを背負い、急いで部室を出た。
ぱちん、と電気を消して振り返ると、仄暗い部室はどこか現実離れしたような雰囲気をしていた。

翌日のホームルームで、担任は夏月先輩について特に何も言及しなかった。ただ一言、「屋上への扉は換気のために開いていることもあるが、危険なので許可なく立ち入るな」とだけ。
教室の中は昨日誰かが屋上から飛び降りたという噂で持ち切りだったが、あくまで噂レベルのものでしかなく、詳しい事を知る者は誰もいなかった。木々のさざめきのようなひそひそ話の音が漂っている。
結局、昨日は夏月先輩と連絡がつかなかった。当然といえば当然なのだが、その結果は否が応でも僕に「先輩が飛び降りた」という事実を突きつけてくる。
噂は徐々に尾ひれをつけて……いや、かえって真実にちかづいたのだろうか、「誰かが死ねと言ったせいで飛び降りた人がいる」といったものになっていた。
その頃には僕は吐き気を堪えられずにトイレの個室に閉じこもらざるを得なくなっていた。
便器に顔を近づける抵抗感などとっくになくなっていて、せりあがってくる胃の内容物を吐き出し続ける。
消化され切っていないものを吐く時特有の、喉に張り付く異物感が更に気分を悪くさせる。中途半端に吐くのが気持ち悪くて、喉奥に指を突っ込んで嘔吐く。指先に触れる喉頭蓋のこりこりとした感触が気色悪い。朝ごはんを全部吐き切っても尚おさまらない胃の不快感はどうしたものだろうか。逆流した胃液が喉を焼く痛みと合わさって、気分は最悪どころではない。
生理的な涙と唇に付いた吐瀉物でぐちゃぐちゃの顔面を鏡で見て、ようやく冷静になれた。
顔を洗って、口をゆすいで、やっとましな気分だ。
それでもまだ調子が悪いことには変わりなく、結局僕は早退してしまった。
ふらふらする身体に鞭打って家まで辿り着く。盛大に嘔吐したせいで思った以上に体力を消費していたらしく、ベッドに横たわって泥のように眠った。
目が覚めると次の日になっていた。

ひたすらに嘔吐の繰り返しだった。先輩についての最悪な想像が頭を過ぎる度に吐き気が込み上げて、休み時間の度にトイレで嘔吐いた。胃液が喉を焼く痛みも、独特の嫌な味にも慣れてしまった。
次の日も、その次の日も先輩からの連絡はない。
「大丈夫ですか」とメッセージを送ろうとしても、自分にはそんな資格はないような気がして取り消してしまう。臆病な自分に、自分の犯した過ちに、自己嫌悪がとまらなくて、また嘔吐する。
そんなことを繰り返して、一週間と少しが経った。
今日も先輩はいない。部室で何時間待っても先輩は来ない。あの時僕を起こしてくれた、夏月先輩の友人の齋藤先輩。彼女が部室に入り浸るようになっても、この寂しさはどうにもならなかった。
齋藤先輩と連絡先を交換した時、何かあったら連絡するように、と指示された。
現状、何もないのでこちらから連絡はできていない。
ただ、思ったより憔悴している僕のことを気にかけてくれているようで、まめに連絡をくれる。
先輩の容態は安定しているようで、軽い骨折と脳震盪だけで済んだ、と教えてくれたのも彼女だ。
齋藤先輩は僕のことを憎んでいた様子だったが、僕は彼女に感謝していた。

ぴこん、と場違いに明るい通知音で目が覚める。
齋藤先輩からのメッセージだ。
心配してもらっている立場なのにその連絡が鬱陶しくて、僕は乱暴にチャット画面を開いた。
「夏月、今日は学校来るらしいよ」

急がなきゃ、急がなきゃ、急がなきゃ!
放課後になると真っ先に部室に向かった。齋藤先輩の話が本当なら、夏月先輩は部室にいるはずだから。
先生に注意されない程度の早歩きで部室へと急ぐ。早鐘のように鳴る心音がうるさかった。気が急いて靴紐を踏んだり、リュックサックが肩からずり落ちたりするが構いやしない。はやく先輩の元へ向かわなきゃ。
そして、謝るんだ。

深呼吸して、扉を開ける。
いつもの教室の、定位置のロッキングチェアに先輩は座っていた。シンプルなカバーに覆われた文庫本を読んでいる。手首に巻かれた純白の包帯が痛々しい。
長いまつ毛が頬に影を落として、アンニュイな雰囲気を醸し出していた。
息をするのも忘れて端正な横顔に見とれていると、先輩は物音に気付いたようで、僕の方に目線をやる。
「ひさしぶりだね、伊藤くん」
一瞬、何が起こったかわからなくて呆けてしまった。
先輩は僕の事を水葵くんと呼んでいたはずだし、放課後に会う時はボディータッチも欠かさなかったのに。
いつもは、その瞳を甘く蕩かしていたのに。
飛び降りた際に頭でも打ったのだろうか。いや、そんな話は無かったはずだ。
ちらり、と先輩の様子を窺うと、先輩は何事もなかったように手元の本に目線を戻していた。
まるで僕に対する興味が欠片もないみたいに。
心がきゅぅっと締め付けられて壊死しそうな気分だ。
「先輩、あの……」
「なに?」
先輩は文庫本から顔を上げずに答えた。
本当に嫌われてしまったんだとようやく自覚する。
ぐぐっと吐き気が込み上げるのを我慢して、傷付いてなんかいないふりをした。
「ごめんなさい」
「何の話?」
先輩は穏やかな表情で、優しい声音で問う。
触れてほしくない話題だったのか、単純に僕が嫌いなのかはわからないが、話す気はないようだ。
「用がないなら帰ったらどうかな」
やんわりと退室を促されて僕は泣きそうになる。
自分が嫌われている事を自覚しても辛いものは辛い。
「……用がない時でも会いに来てって言ったのは、先輩でしたよね」
もうこれ以上先輩からの印象が悪くなることはあるまい、と僕は捨て台詞のようなものを呟いた。
まさに後悔先に立たず。あんなに好いてもらえてたのに、僕は自分からその好意を振り払った。
先輩は、その色素の薄い瞳でじとりと僕を見つめる。
何を見ているのかわからない、不思議な、吸い込まれるような美しい瞳だ。
感情が読み取れない分、いつもより先輩が儚く見えて不安になる。
先輩は、呆れたように深く溜息をついた。
「そろそろ、帰ろうかな」
興を削がれた、とでも言うように先輩は緩慢な動作で文庫本を閉じる。ぱたん、という音がやけに大きく響いた。いつもの深緑色のリュックサックに無関心そうにそれをしまい込む。先輩じゃないみたいだ。先輩は本が大好きで、何よりも丁寧にしまい込むのに。
僕はその様子をぼんやり見つめていたが、ふと我に返って慌てて帰りの支度をする。
「あの、先輩……」
すでに教室を出ようとしていた先輩は振り向いた。
重そうなリュックサックが先輩の肩にくい込んでいて痛そうだった。
まだ何か用があるのか? と言われているような威圧感があって少し怯んでしまう。それでも引き下がってはいけない。
「帰り道、ご一緒してもいいですか……?」
「いいよ。帰り道一緒でしょ」
意を決して放った言葉は案外あっさりと、なんてことないように受け入れられた。拍子抜けという感じだが、受け入れてもらえてほっとしたのも事実だ。自然に表情が少し緩んだ。

玄関を出て、先に行ってしまった先輩に小走りで追いつく。その風景は見慣れたもので、いつもの帰り道と全く同じように錯覚してしまい、心の中で苦笑した。
無言の空間を息苦しく感じて、先輩に話しかける。
「先輩は――」
「なに?」
てっきり返事をしてくれないものだと思っていたので、少し驚いてしまう。それを気取られないように、先輩を不快にさせないように、慎重に言葉を紡ぐ。
「先輩には、怖いものはありますか」
先輩は少しだけ驚いたような表情をしたが、すぐに真顔に戻った。そしてしばし黙って考え込む。
「……死ぬこと、かな」
先輩は静かな声でそう答えた。
怖いのに、この人は屋上から飛び降りたのか。
そう考えると胸が苦しくて、どうしようもないほど悲しくて、そんなに辛い思いをさせてしまった自分自身がとてつもなく情けなかった。
「なら、なんで!」
動揺のあまり声量を間違えてしまい、先輩は少し顔を顰めた。
一旦息を吐いて、声量を調節する。
今にも泣きだしそうな震え声で僕は続けた。
「――なんで、飛び降りたんですか」
再び沈黙が訪れる。先輩の表情を盗み見ると、思ったより穏やかな表情をしていた。僕の質問に気を悪くしている様子はない。一言ずつ、噛み締めるように先輩は告げる。
「理由なんてないよ。ただ、辛かっただけ」
遺書は、僕に対しての手紙だった。
僕が辛い思いをさせたから、先輩は死のうとした。
先輩の表情をもう一度見ることはできなかった。
後ろめたさから俯いてしまう。
「僕のせい、ですよね」
「そうかもしれないね」
どこか他人事のように先輩は答えた。
先輩の意図は読めない。
でも、そうさせてしまったのは僕だから、と頭を下げる。
「本当にごめんなさい。酷いことを言ってしまいました」
ううん、と先輩は明るい声で言う。
「別に、気にしていないよ。伊藤君に迷惑をかけていたのは私だったから」
諦めたようなさっぱりした声色。
いつもの先輩のようで、先輩らしくない声色。
それに気を取られていると、2人の通学路が分かれる道まで辿り着いていた事に気付いた。
先輩もそれに気が付いたようで立ち止まる。
僕は未練がましく話しかけようとしたが、それはできなかった。
「じゃ、さようなら」
先輩はそう言ってひらりと手を振った。思わず手を差し伸べるも、先輩は僕に背を向けて帰っていく。
不安が腹の中で渦巻いていた。
手紙の締め括りと同じ、『さようなら』。先輩は別れ際にはいつも『ばいばい』と言うのに。
後ろ姿が遠ざかっていく。それは余りにも頼りなく、儚く見えてやるせない気持ちになってしまう。夕焼けが先輩の深緑色のリュックサックを赤く染めていた。あの時してしまった『最悪の想像』と同じ色だ。
気付けば僕は駆け出していた。随分と離れてしまったように感じていた後ろ姿にあっさりと追いつく。
先輩は追いかけてくる僕に気が付くと、微笑んだ。
ように、見えた。
「どうしたの?」
僕は息を飲んだ。
先輩の目は笑っていなかったから。
虚ろで何も映さないかのような濁った瞳。
――やっぱり、夏月先輩は死んでしまったんだ。
あの日までの明るい先輩は、僕が殺したんだ。
耳元で「今更後悔したって遅いよ」なんて語りかけられるような嫌な妄想。結局は罪悪感が生んだ幻聴だとわかってはいるけれど、耳を塞いでしまいたいほどその言葉は僕にとって酷だった。
喉奥から苦いものが込み上げるのをぐっと堪えると、ぽろっと涙がこぼれた。
先輩はそれを見て目を見開く。いきなり後輩の男に目の前で泣かれたら、そりゃあ驚くだろう。泣くつもりがなかった僕でさえ驚いている。
「ごめんなさい……先輩を困らせたいわけじゃ、なくて……。ごめんなさい、ごめんなさい」
しゃくりあげて僕は懺悔した。自分の意思で涙を止められないことがひどくもどかしい。
苦しくて、辛くて、先輩に縋り付くようにして跪く。
本当に辛かったのは先輩なのに、僕は何をしているのだろう。情けない気持ちで一杯になった。
困惑していた様子の夏月先輩は慰めるように、僕の頭にたどたどしい手付きで触れた。指先からほんのりと伝わる温度は前と変わらない。
それがかえって悲しくて、僕は声を上げて泣いた。
公道で泣いている男子高校生なんて明らかにやばい奴だろうに、先輩は縋り付く僕の手を優しく握った。薄らと手汗をかいていた僕は体を縮こませるが、先輩はそれを意に介さず指を絡めてくる。すり、と優しく、殊更に優しく親指の腹で手の甲を撫でられた。恋人かと勘違いしそうな程甘やかな接触に、頭がおかしくなりそうだ。
夏月先輩の手は柔らかくて、優しい暖かさだった。
「先輩、せんぱい……」
どこにも行かないで。僕をひとりにしないで。
先輩がいなくなるのが怖くて、息も出来ないんです。
僕をずっと、先輩の傍に置いてください。
夏月先輩は僕が浅ましい欲を吐き出すのを黙って聞いていた。その姿は教徒の懺悔に耳を傾ける聖人のごとく、神々しささえ感じた。
自分がどうしようもないほどに夏月先輩に依存していることを痛感する。自覚してもやめようとしないのだから、その業の深さはいかほどだろうか。
――しばらくそのままの体制だった。
大分落ち着いてきた僕はゆっくり立ち上がる。
様子を伺うようにそっと先輩の顔を見ると、
「……そろそろ帰らなきゃ」
先輩は僕を優しく突き放した。
「また、明日ね」
そう言って先輩は小走りで去っていく。
また明日。明日は大丈夫。
明日はまだ、先輩は生きてる。
その一言が僕の心にひと時の安寧をもたらした。
僕は温もりの残る手のひらに頬擦りをする。
もう二度と離したくない。
先輩を、絶対に失いたくない。

少年がどす黒い感情を渦巻かせるのを知ってか知らずか、走り去った少女はほくそ笑む。
「やっと好きになってくれたね」

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