面倒なことへの向き合い方が「やりたいこと」かの判断になる

やりたいこと探しの旅に出て帰って来れない人がいる。私もよく旅に出る。物理的に旅行に行くのではなく現実逃避という意味の旅だ。

特に最近は、面倒なことが起きた時によく旅に出ている。
私でいう面倒なことは、仕事関係者との政治的で忖度あるやりとりだ。

関係者が多くなるほど発生する仕事上での政治的な悩み。腹の探り合い、ご機嫌伺い活動。

すんごくめんどくさい。
しかしここで気づいたことがある。面倒くさいことをしてでもやり遂げたい場合と、そうでない場合があるということに。

面倒だけれどもこれさえ乗り越えたら目的が達成できるんだ!というマインドの時と、断固拒否の時がある。

学生の頃、ゼミで出場したディベート大会で勝ちたかった。そのためならどれだけ面倒なことも、華がないことも率先してやったものだ(拗ねたガキンチョのご機嫌とり、話を聞かない学生に罵倒されながら提案したり…)

一方いま社会人として仕事を進めている中で、政治的にどう立ち回れば良いかわかるのだが、1mmたりともやりたくない。そんな状況である。

この私のマインドの違いは何なのだろうかと考えた時に、面倒なことをしてでも得たいモノがあるかどうかが相違点であると気づいた。

学生の頃はディベートを通して、0から本気で目標に向かい掴み取る経験をしてみたかった。だから本当に何でもやれた。

今の私は、無理した先に得られるものにきっと興味がないのだ。会社での地位、職業の専門性が得られるものなのだが、そこに興味が実はあまりないのだ。

優秀な人は、こういったものに価値を置き、面倒事を乗り越えてきた人たちだと思う。
一般的にどうなのかは知らないが、少なくとも私の尊敬する人たちはそうだ。どこかの分野で壁を乗り越え第一人者になってる。

私はきっと今の分野で第一人者になれない。
なる気がない。

面倒なことをやってでも成し遂げたいことは何だ。

私の場合は複雑なものや誤解があるものを誰にでも伝えられる状態に言語化することに、やりがいを感じている。

仕事でできる幅が広がり色んな面で評価されるようになった。しかし、ニヤニヤと達成感を感じるのは1年目の頃から何も変わっていない。

複雑な概念を誰にでもわかるレベルに言語化できたことに歓喜している。お手軽だが私にとってはコアな要素。

だから私は言語化することを生業としていきたい。

まだまだなんだけど、着実に積み上げていきたい。苦労しながらやってく甲斐がありそうだ。まずはnoteを毎日投稿しようじゃないか。

やりたいことじゃなければ、面倒事はモチベーションを下げにかかってくる。
しかし、やりたいことであれば手段と割り切れ、仮に悔しかったり悲しかったりしても、モチベーションに歪みが生じることはない。




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