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なぜ社会・企業から年功序列はなかなか消えないのか、考察してみよう

 伝統的な日本企業はガチガチの年功序列社会だ。こうした旧態依然とした気風は常に批判の対象であり、年功序列の打破はここかしこで聞こえてくる。

 ただし、日本社会から年功序列的な要素はなかなか消えないと思う。これはサラリーマン社会を知った上での感覚だ。年功序列システムは実に強力な原理で支えられており、見直すのは非常に難しい。仮に廃止されたとしても、その後の社会が今より良いものになるとは限らないだろう。

人間は序列を作る生き物

 人間から決してなくならない本能がある。それは人間が序列を作る動物だということだ。これは集団生活する哺乳類に良く見られる性質である。序列が不安定だと争いを産み、構成員全員が危険にさらされる。それに序列があった方が生産性が上がることも多い。リーダーの元に団結し、一斉に行動を取れるようになるのだ。実際に軍隊は厳格な階級社会だし、非常事態になると人々は強いリーダーを求める。

 これは会社も同様だ。会社は序列がないと回らないだろう。上司が命令し、部下がそれに従うというカルチャーは軍隊と同様に機能的だ。これがなくなると、命令系統が混乱し、業務遂行は不可能となる。それにこうした法的な序列付けはしばしば人間関係のトラブルを現象させる。上司にはそれなりの責任があるため、権力の濫用には歯止めがかかる。もちろんパワハラ上司は甚大な害を産むが、法的な裏付けのないお局によるハラスメントの方が法的根拠のない分、厄介となりうる。

 社会や企業においては序列づけを行わないとうまく回らない時がある。問題は、それがどのような法則によって行われるのかだ。

①暴力

 これはチンパンジーの社会を回す法則であるし、人間においても戦国時代や無政府状態においては成り立っていただろう。暴力の強いものが序列で上に来るという恐ろしい社会だ。構成員は暴力を見せつけて社会の階段を登らなければならない。暴力団どころか半グレの社会がこれだろう。国家で例えるならばソマリアだろうか。

 安定した企業でこの方法は取れない。特に説明する必要はないだろう。暴力で役職を決める会社があるだろうか。

②権力

 これは暴力よりも一般的に見られる社会である。暴力を使ってはいけないという規範はあるのだが、それ以外のルールはなく、好き勝手に序列が決まる社会である。小中学校のスクールカーストや、機能不全に陥っている国家・職場で良く見られる。

 権力に基づく序列付けは事実上の状態で決まる。序列付けを裏付ける客観的な制度が存在しない。これは非常に厄介な社会だ。幼稚なイジメもこの不安定な状態が原因で起こることが多い。すなわち、人間に序列を作り、それを再確認するためにイジメ行為が多発するのである。

 例えば職場で権力を持っている人が勝手に場を取り仕切っている場合、大抵の場合は問題が生じる。その人の権限を抑制する法的な根拠が存在しないので、やりたい放題になってしまう。何の正統性もナシにその人の考える価値観が押し付けられ、職場は機能不全へと向かう。宗教団体や政治セクトのように外部からの監視がない集団には異様な粛清劇が見られるし、破綻国家の多くもこうした現象が見いだせる。国家で例えるならばロシアだろうか。

 権力に基づく序列付けもあまり好ましいとは言えないようだ。腐敗と不和の温床となるからだ。もっと文明的な方法はないだろうか。

③実力

 より一般的に理解が得られるのは実力主義だ。伝統的な日本企業を批判する文脈で使われる考え方でもある。実力のある人間が上に行けば社会はより生産的になるというものだ。実力主義的な序列付けは、大相撲のような場所でしばしば見られるものである。

 ここでいう「実力」は暴力や権力とは異なる概念だ。実力は集団から明確な定義が与えられている。例えば試験の点数や、売上の成績といったものだ。実力は常に人間の感情が入らない客観的な方法で査定されるものと考えられており、ここを厳格にするのがフェアプレイ精神である。例えば政治家が賄賂で票を水増しするのは、「自分で勝ち取った結果」ではあるが、「実力」とはみなされないだろう。権力主義の社会では認められるが、実力主義の社会では不正とみなされる。

 ところが、実力主義で組織や企業を回すのは難しい。「試合に強ければ先輩にタメ口で話して良い」という体育会系部活が存在しないことを見ても明らかだろう。一見最善の方式に見えて、どこかに欠陥があるのだ。

 集団の団結力を守るには、効率性だけでは不十分で、人間関係の円満さも考慮しなければならない。実力に基づく序列付けは常に変動するため、人間関係も不安定になる。営業成績で抜かれた途端、今まで敬語で接してきた相手が上から目線で対応してきたらあなたはどう思うだろうか。

 それに、実力主義はあまりにもクリティカルであるため、お互い協力しようという機運になりにくい。実力の秘訣は個々人の企業秘密となり、後輩に教えてあげようという人はいなくなるだろう。第一、実力を客観的に図れる部署の方が少ないのだ。経理やら総務やらと言った部門に適用するのは不可能である。

 実力主義で回っている業界は自営業的な側面が強い。こうしたやり方は大勢の個人だから成り立つのだ。集団として緊密に協力しようとすると、ある程度の平等主義は避けられない。一時期もてはやされた成果主義も結局日本の会社にはなじまなかった。実力主義とはしばしば残酷で、分断をもたらすのだ。国家で例えるならばアメリカだろうか。

④身分

 これは今までの3つに比べると遥かに穏当で効率的なやり方である。最初から偉い人と偉くない人を決めて、それによって序列を決めるのだ。この方法は一見残酷のように見えて、意外に安定している。だからこそ近代以前の社会の多くは身分制を取っていたのかもしれない。

 身分制のやり方を導入している組織は多い。軍隊がそうだし、採用が多元化している職場もそうだ。例えば中央省庁は一種職員と二種職員が別れており、昇進も採用も全く異なる。年下の一種職員に対して年上の二種職員が敬語を使うのは当たり前だ。他にも医者と看護師とか、士官と兵卒といった職種にも見られる。政治家と公務員の関係にも言えるかもしれない。

 身分制社会は現在も存在しているし、ここには協力な必然性がある。昨日まで部下だった人間が明日から上司になるような事態は人間は受け入れがたい。それよりも上司はずっと上司で、部下はずっと部下だった方が遥かに受け入れやすいだろう。身分制社会は分断を産むが、一方で調和も生む。医者は医者で世界を作るし、看護師は看護師で世界を作る。両者には主従関係があるが、ある意味で対等でもある。違う世界の人間なので、上下関係があっても問題にならないのだ。

 身分制組織は大規模な事業体で見られる形態だ。軍隊はもちろん、多数の現場労働者を抱えるメーカーや鉄道会社でも見られる。通常、上位集団は学歴が上なケースが多く、逆転現象が起こることは少ない。例えば警察を考えてみよう。キャリアはほぼ全員が東大法学部と相場が決まっており、その下の準キャリアはMARCH関関同立辺りのゾーンが多い。その下の一般警察官は大東亜帝国や高卒が一般的だ。学歴に大きな差があるため、お互いを別の世界の人間と認知しやすく、上下関係と棲み分けの安定に繋がっている。

 なお、しばしば面倒な事態が起きるのが総合職女性と一般職だ。同じ大学の出身でも総合職と一般職の女性がいたりする。このような事態は女性の高学歴化が進むにつれて増えていくだろう。幸いにして女性は男性に比べて職業上の序列にこだわる人が少ないので、問題は軽減されている。

 身分制社会は一見不公平のように見えて、安定している。それぞれの身分にそれぞれの世界があり、それぞれの勤めがある。求められるのは上に登ることではなく、それぞれの身分の勤めを全うすることだ。上の人間は上の人間なりに大変なことが多いので、下の人間も違いを受け入れる。国家で例えるならばインドだろうか。

⑤年次

 年次による序列付けは恐らく人類が狩猟採集時代から行ってきた方式であり、最も安定している可能性が高い。伝統的な日本企業はこのやり方を取り入れており、多くの徒弟制の業界も同様だ。身分制の職場ですら、同一の職種の間では年功序列的な概念があることがほとんどだ。

 年次による序列付けは極めて安定している。というのも年上の人間が年下の人間に追い越される可能性がゼロだからだ。それに実力と違って年齢は解釈の余地がなく、判定方法を巡って議論が起こることもない。それに年次が上の人間の方が経験が豊富であることが多いので、ある程度実力とも相関している。

 何よりも年功序列の優れた点として、平等であることが挙げられるだろう。50歳の人間も昔は30歳だったことがある。全ての人間に年齢は平等だ。今は年長者に押し込まれていると感じていても、いずれ人間は年長者になっていくので不公平感には繋がらない。日本企業の特徴はどの社員にも平等に出世のチャンスがあることだが、これは身分制を取った場合は実現不可能だ。日本企業は厳格な年功序列を形成したために社員を平等に扱いことが容易となった。個人の才覚で金持ちになるのがアメリカン・ドリームとすれば、入社と同時に一斉スタートで出世競争が始まり、社長のイスを勝ち取るのがジャパニーズ・ドリームである。

 年功序列社会の強みは構成員の平等を担保した上で序列を安定させられる点だ。日本企業では比較的「年下の上司」現象は起こりにくいようになっている。もしかしたら「上司」という概念すら希薄かもしれない。役職があろうと無かろうと、年次が上の人は「エラい」のだ。「上司」と「先輩」の区別が曖昧なのが年功序列社会の特徴かもしれない。

 年功序列社会の弱みがあるとすれば何か。大抵の社会では歴が長い人間が権力を握っていることが多く、実力と同様に権力の側面からも年功序列社会は安定していることがわかる。ここで1つの疑問が湧いてくる。年功序列社会に外から人が入ってきた場合はどうなるのだろうか?

 インサイダーだけで回している分には年功序列社会は問題はない。閉鎖的な部族社会のようなものだからだ。ところがアウトサイダーの処遇を考えると途端に難しくなる。「年齢」「職歴」「社歴」の3つはアウトサイダーの場合は一致しないことが多い。年齢が上の人間が新しく入社してきた場合、周囲の年下の人間は敬語を使うべきだろうか。業界での歴は長いが、昨日入社したばかりの人間が上司として偉そうな態度を取った時に、それを尊重できるだろうか。これらのギャップが大きくなるため、伝統的な日本企業はアウトサイダー、特に年齢が上の人間には極めて閉鎖的だ。一昔前の日本のサラリーマン社会は転職=ドロップアウトという認識が当たり前だった。転職すると給料と会社のレベルは大きく下がるし、出世の可能性もなく、よそ者扱いが続くということが多かった。

 また、年功序列社会はもう一つの問題をはらんでいる。年功序列が機能していた社会は老人の数が少なかった。古代の部族社会ではほとんどの人間は40歳まで生き残れなかったし、昭和の日本では人口が急増していたからだ。こうした「人口ピラミッド」の時代は年長者の数が少なかったため、その経験と知恵は希少価値を持った。しかし、現在は少子高齢化の時代であり、老人が余っている。しかも能力の落ちた60代や70代の老人にも働いてもらわないといけない時代だ。こうなると、価値の低い老人が価値の高い若年層に自分を敬えと命じるのは難しくなってくる。

 これらの事情により、伝統的な日本企業は働き方に関して3つの原則が守られていた。それは「年功序列」「新卒一括採用」「定年制」である。この3つは不可分に絡み合っている。年功序列を維持するにアウトサイダーが入ってこられると困る。この点で新卒一括採用は都合がいい。「年齢」「職歴」「社歴」の3つが必ず一致しているからだ。また、年功序列を維持したままで活力を生み出すには、いつまでも生産性の下がった老人が居座られると困る。この点で定年制は不可欠だ。昨日まで「エラい」役職についていた上司を生産性が下がったからといって平社員として顎で使うのは気が引けるだろう。要するに、伝統的な日本企業とは22歳で「誕生」し、60歳で「死去」する限定的な部族社会とも言える。

 ところが現在の少子高齢化社会の場合、こうした年功序列社会を維持するのは難しくなってくる。若年層の間では転職が一般的になっているし、高齢層は職に困っていることが多いからだ。寿命が伸びたことにより、定年制は終身雇用の象徴から強制退職という側面が強まってきている。今後の日本社会の変化は非常に興味深いことになるだろう。

 

 

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