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健常児を見るだけで辛い…そんな私が見つけた気持ちの落としどころ

 障害児を育てていると、思い描いていた育児とは全く違う現実に、悩み・苦しみますよね。本投稿では、健常児が羨ましくて見るだけで泣いてしまっていた私が、どのような考え方で気持ちに折り合いをつけて健常児と接しているかという体験談を紹介します。

同じように苦しむ人に寄り添い、背中をそっと撫でられたらうれしいです。

この記事はこんな人におススメ

  • 健常児を見るのが辛い

  • 障害のあるわが子と健常児を比べて落ち込んでしまう

  • 健常児を育てる友人が羨ましい

  • 最近はインクルーシブ教育(健常児と障害児が同じ場で過ごす等)が流行りだが、不安・疑問を感じる

結論

健常児は羨ましい。でも、可愛い。
ともに育てよう。その子とわが子の未来のために。

健常児を見るだけで辛い日々

私は子育てに対して、"幸せな夢"をいだいていました。
子どもがうまれたら、公園でボールを投げ合いっこして、滑り台の頂上で手を振るわが子に手を振り返し、"ママ、ママ"と駆け寄ってくるわが子を抱きしめよう…という、ごくありふれた夢です。
子供を産みさえすれば、こんな日々が過ごせると思っていました。

ところが、生まれてきたわが子はそれができる子ではありませんでした。目が合わない、こちらに興味がない、声掛けにも反応しない、"ママ"どころか、ひと単語も話せない、こちらに微笑みかける・手を振ることなんて一切ない…そんな子でした。

"幸せな夢"が得られなかった絶望感、愛情を与えても与えても返ってこない無力感はすさまじく、悲しみは言い尽くせないほとでした。

長男は2歳児クラスの1年間、ごく普通の保育園に通っていました。お迎えに行くと長男のクラスメイトの普通の子は、「ママ、ママ」と嬉しそうに母親に駆け寄ります。私はそんな姿を見るだけで涙が出ました。"私も、あんな風に子どもに求められてみたい。本当はあんな子育てがしたかった…"と。

"羨ましい健常児"から"名前の付いた子"へ

長男が入園して半年がたったころ、私の心境に少しずつ変化が起こりました。

送り迎えを繰り返すことで、少しずつ子どもたちの顔と名前が一致してきました。それまでは、ただの"健常児"だった長男の同級生たちは、"はるくん、ゆうちゃん、さきちゃん…"など、一人一人の個人として見られるようになりました。そして、みんなそれぞれの可愛さがありました。

つまり、毎日見ることで、嫉妬してしまうだけの存在から、可愛いと思える存在へと変わっていったのです。

無邪気で可愛い子どもたち

その頃、長男の発達の遅れはますます顕著になりました。

普通の子は"他者を意識して"遊んでいました。例えば砂場では、砂で作ったアイスを"どーぞ"おともだちに渡し、渡されたら"あいっとー(ありがとう)"と言って食べる真似をする…といったように。

一方で長男は、他者への関心がありません。話しかけられても無視。優しいおともだちが長男の好きなおもちゃを持ってきてくれたのに、無反応。

だから、そのうち長男に話しかける子はいなくなり、この子は孤立してしまうかも…と悲しく思っていました。

でも、結局は退園するまでそんなことはなかったようです。先生曰く、長男はクラスの人気者だったとか。

私が、"こんなにリアクションが薄い子なのにどうして?"と聞くと、お世話したがり子たち(主に女の子)が集まっていたのだとか。弟要因として可愛がられていたようです。

いうなれば赤ちゃん扱いされているということでもあるのですが、私はその話を聞いても不快に感じることはなく、むしろ長男のクラスメイト達のことを、さらに可愛いなあと思いました。


障害児との交流を覚えていたYちゃん

ここで、Yちゃんという友人の話をします。私の長男に障害があることを打ち明けたとき、彼女はこんな話をしてくれました。

「小学生のとき、自閉症の子たちと過ごしたことがあるよ。最初は手を振り払われて悲しかったけど、最後に折り紙を差し出してくれたのがうれしかった。言葉は交わせなかったけど、その"うれしい"って気持ちとか、"いろんな子がいるんだな"って感覚は、今でも残ってる。」

私はそれを聞いて、Yちゃんの魅力を再認識したように思いました。彼女は人のことをほとんど悪く言わず、他人に対して肯定的です。彼女の人間性を構築した人生経験の一つに、障害児との交流があったのかもと思いました。

できないことだらかのわが子が、健常児に教えられること

おこがましい発想かもしれませんが、障害児のわが子は健常児に大切なことを教えられると思うのです。

その大切なこととは、まさにYちゃんの言っていた
"いろんな子がいるんだな"という感覚です。

世の中には障害を持つ人たちがいる。そんなことは誰でも知っています。でも、知識があることと実際に障害者をイメージできるかは別です。

世の中には障害者がいると知っているのに、街で奇声を出す人には眉をひそめる。なかには"うるさい"と罵声を浴びせる人もいる。病院で騒ぐ子がいれば、親の躾が悪いと決めつける。点字ブロックの上に平気で自転車をとめる。これらの行動は、自分が住むこの街に障害者も住んでいることをイメージできていないのだと思います。

でも、小さい頃に障害のある子が当たり前に近くにいればどうでしょう。大人になってから街で障害者を見ても、「変な人」「気味の悪い人」ではなく「まぁそういう人もいるよね」と思えるのではないでしょうか。

"いろんな人がいるんだな"という感覚を、小さい頃に身に着けられることは、きっとその子の財産になります。

そしてそれは、将来のわが子(障害者)を差別や偏見から守ることにもつながります。

結論

だから私はこう思います。

健常児が羨ましい気持ちはなくならない。だって、わが子に障害なんてあってほしくなかったから。
だけど、健常児も可愛い。
だから私と長男とで教えてあげよう。いろんな子がいるんだよ、と。

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