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「古文漢文不要論」に思うこと

 2月もあっという間に過ぎ去り、3月になりました。受験シーズンも佳境に入るこの時期には、勉強に関する様々なテーマが盛り上がります。中でもインターネットで毎年のように起こるのが「古文漢文不要論争」です。

 要するに「古文や漢文は現代社会を生きる上で必要がない。プログラミングやディベートなど、もっと役に立つ科目を教えるべきだ」という意見です。受験勉強で古文漢文に苦戦した人も多いでしょうから、このように考えるのも無理はないでしょう。

 しかしながら、不要派の意見を読んでいると、単に自分が古文漢文を好きではないから、苦手だから、理屈をこねくり回して遠ざけているように見えなくもありません。その理屈が認められるのなら、私は皆さんの大好きな体育の不要を主張したいものです。

 ともあれ、こうした「役に立たないからいらない」という価値観は、近ごろ称揚される「合理主義」の一種といえるのですが、私は「合理主義」ほど短絡的で傲慢な考えはないと思います。

 学校教育とは、職業訓練校のような「実社会において有用なこと」のみを学ぶためにあるのではありません。
 文科省の指導要領を見ると、現代文は「実社会において必要な国語の知識や技能を身につける」ための科目であり、古典を含む言語文化は「生涯にわたる社会生活に必要な国語の知識や技能を身に付けるとともに、我が国の言語文化に対する理解を深める」ための科目とあります。
 つまり、現代文は実社会において、古典は生涯にわたり必要となるものと定義しているのです。では、古典はどのような場面で必要なのでしょうか。

 そもそも「役に立つ」とは何でしょう。例えばプログラミングや英語は、知っておけば実社会で有利になるかもしれませんから、役に立つといええます。
 しかし、ほんの100年前の社会では、これらは生きていく上で必要のないものでした。では100年後はどうでしょう。プログラミングや英語の知識が、必ずしも必要ではない社会になっているかもしれません。

 このように、「すぐに役に立つ」ものというのは、「すぐに役に立たなくなる」ものが多かったりします。目先の損得だけで物事を価値を判断するのではなく、100年先、200年先を見据えて、変わりゆく時代に波に耐えうる知識、教養を身につけ、次世代に繋いでいくのが、学校教育の意義ではないでしょうか。

 その意味で言えば、古典ほど信用に足るテキストはありません。なぜなら、古典とは、私たち日本人が「必要」だと感じて、大切に所蔵されたり写本が書かれたりしたことで、何世代にもわたり多くの人に読まれ続けてきたものだからです。

 当たり前のことを言いますが、古典は最初から古典だったわけではありません。当時の日本人が、その時代の政治・文化・価値観などを反映して、自分以外の誰かに読ませるために書いたものです。つまり、古典とは、私たち日本人が、過去に何を考えてきたかを知る唯一の手段といえます。

 例えば人生の岐路に立ったとき、試練にぶつかったとき、小手先の技術だけでは何の役にも立たないかもしれない。しかし、私たちの先祖が何を考え、何を選択し、試練をどう克服したのかを知れば、その問題を考える手がかりにきっとなるでしょう。

 今私たちは日本語を話し、多くの古典が日本語で残されています。現代日本人の文化や美意識も、古典作品から地続きに繋がっているものがほとんどです。
 これは当たり前のことではありません。世界には、かつてもっと多くの国や言語がありましたが、侵略戦争や革命によって多くの古典が失われ、言語ごと忘れられてしまったものも少なくありません。

 日本は建国以来約2000年間、外敵に滅ぼされず、革命も起きずに続いてきた、世界最古の国です。7世紀前半に成立した『万葉集』には、女性や庶民の詠んだ歌が載っています。11世紀に紫式部によって書かれた『源氏物語』は、現存する女性による長編小説として世界最古のものです。

 現代においても日本人は、漫画・アニメなどが世界中で賞賛される、高い文化レベルをもった民族です。それは突然そうなったのではなく、私たちの先祖が残した素晴らしい古典を大切に受け継いでいるからに他なりません。

 そんな素晴らしい国の古典を知らないのはもったいないと思いませんか?確かに古典は難しいし、必要ないという人もいるかもしれません。でも、私たちは縁あって日本人として生まれたのですから、日本の古典を学校で教えるのを「不要」というのは、虚しい考えだと私は思います。

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