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スペイン語との再会

大学で2年間専攻したスペイン語と、思いがけない形でこの春に再会しました。

ククの入学後、しばらく1年生だけで集団下校をする期間があり、保護者としてお供をしました。先生が先頭に立ってくれるので、私はほかのお母さんたちとしんがりを務めました。

ククと同じ通学路のグループにCちゃんという女の子がいました。Cちゃんは道端の水たまりや段差や草花がとても気になる様子で、集団下校の列からひとり遅れがちに。ほかの子どもたちにどんどん置いていかれるので私のほうが焦ってしまい、「前の子についていこうね」とうながしたり「あと少しだよ!」と励ましたりしましたが、Cちゃんからはまったく反応がありません。海外にもルーツを持っているように思われる面立ちだったので、英語で声をかけてみましたが、表情はまるで石のように硬く、日本語も英語も伝わっていないように感じました。どのことばならCちゃんがわかるか、その日の引率の先生もご存じではありませんでした。

歩を進めるうちに、子どもたちはひとり、またひとりと自宅にたどり着き、最後は先生、Cちゃん、ククと私の4人になりました。Cちゃんの家がどこかもわかりませんでしたが、方角はどうやらうちと同じようだったので、とにかく一緒に歩き続けました。

やがて、通りまで迎えに出ていたCちゃんのお母さんを見つけることができ、Cちゃんがふだんはスペイン語で生活していることがわかったのでした。

Cちゃんのまえにしゃがみこみ、"Hablo Español un poco.(スペイン語ちょっとだけ話せるよ)"と話しかけてみると、それまで無表情だったCちゃんの顔がぱっと変わりました。そこからは、ほとばしるようなスペイン語の洪水。その姿はまるで1日分の思いをいっぺんに放出しているかのようでした。大輪のひまわりが咲いたようなCちゃんの変わりぶりに、「ことばが通じる」ことのパワーを強烈に感じました。自分と同じことばを話す人がいればこんなに子どもの活力が湧きあがるのだということを、初めて知りました。

大学の先生方はみんな日本語が堪能だったので、日本語をまったく解さないスペイン語ネイティブの相手と話したのも私にとっては初めてのことでした。自分の片言のスペイン語でもCちゃんと意思疎通できたのはうれしい驚きでした。Cちゃんの話す内容のすべてはとうてい理解できませんでしたが、それでも聞き取れた断片から「こんなことを言っているんだろうな」と推測できたときもありました。

私のなかのハイライトは、集団下校の数日目、みんなで歩いている最中にCちゃんが「疲れたから水を飲みたい」と言ったとき。道端でランドセルを降ろそうとするCちゃんに、思わず "¡¿Ahora!?(いま!?)"と確認したら、"Sí.(うん)"とマイペースに返ってきたので、のどを潤すCちゃんを横で待ちました。「1列で立ち止まらず歩きましょう」と指導している先生がなんというかなとハラハラしながらも、Cちゃんとのやりとりが成立したなあと実感しました。

私がスペイン語を学んだのはたった2年間。しかも、その後20年以上スペイン語に触れる機会はなかったのに、語彙や動詞変化の規則がわずかながらも自分のなかに残っていたのは意外でした。とはいえ、「スペイン語がわかってよかった」という思いよりも、「私がもっとスペイン語ができれば、この子の思いをもっと受け取ってあげられるのに」という歯がゆさのほうが強かったです。

英語学科への転科を相談した際にスペイン語学科のネイティブの先生から言われた、「いつかスペイン語をもっと勉強しておけばよかったと思うことがあるかもしれないよ」という言葉が頭をよぎりました。そのときの先生の少しさびしそうなお顔も。こんな思いがけない形でスペイン語と再会することになり、先生のおっしゃるとおりだったと痛感しています(でも、転科したのは自分なりの目的があってのことだったので、後悔はしていません。転科についてはまたの機会に書くつもりです)。

もうひとつのハイライトは、集団下校のお供最終日、落としたものを拾って手渡してくれた子にCちゃんが「ありがとうございます」と言ったときでした。その瞬間、同行していたお母さんたちからわっと歓声が上がりました。みなさんそれぞれCちゃんのことを気にかけていたんだと思います。

Cちゃんはきっと、周りの子どもたちとかかわっていくなかでどんどん日本語を吸収していくことでしょう。子どもたち同士の関係のなかでCちゃんのことばが育っていくのを、私は少し離れたところから見守っていこうと思っています。

ただ、私がスペイン語をわずかながら理解できると知ったときのCちゃんのあの輝くような笑顔は、ずっと忘れないでいたいと思います。翻訳の仕事は本来、こんなふうに人と人とをつなぐためのものだということを、自分に刻みつけておきたいのです。


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