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心霊体験『川辺の足音』 前編

 この話は私にとって、書き残しておきたい強烈な体験でした。
         全6話

第1話
 平成10年は、義父との釣行2年目の年でした。
 その前年、義父が初めての自然渓流で、いきなり岩魚を釣ったこともあり、二人ともこの釣行への思いには並々ならぬものがありました。
 行き先は前年と同じ兵庫県揖保川の上流でした。
 この頃、泊りがけの釣行は必ず野営でした。しかも、キャンプ場ではない場所での野営です。
 今から思えば、キャンプ場で家族連れに出会うと、残してきた家族への罪悪感を覚えるので、敢えてキャンプ場を避けていたきらいがあります。
 栃木県今市の山深いところで育った義父は、釣りにはあまり興味はなかったのですが、野営を殊のほか喜んでくれました。私達以外誰もいない野営地で腰を下ろすと、よく
「あぁ、いぃねぇ。」
と首を高く伸ばして周囲をゆっくりと眺めながら感慨にふけっていました。

第2話
 私達が野営地に着いたときは8月もお盆を過ぎており、川辺には誰一人おりませんでした。
 渓流のほとりに料理店がぽつんとあり、その手前の空き地が野営地です。キャンプ場ではないので、当然ながらそこにも誰一人おりませんでした。
 そこは、山仕事へ向かう人達が停める駐車場のような場所で、30台は十分に停められる広々としたバラスの平地でした。勿論、前年もそこを野営地とし、そのすぐ横の流れで初の岩魚に出会ったというわけです。
 テントを設営し終わると、義父は川原の石を集めて
「かまどを作る。」
と張り切っていました。私は早く釣りたいという思いから昼飯も食べずに早速上流へ向けて出発しました。
         
第3話
 しばらく釣り上がりましたが、釣果は無しでした。早く一匹目を釣りたいと、気持ちばかり焦っていたのか、遮二無二遡行していました。

 と、突然、立っておれないくらいの脱力感に襲われました。右岸は林道への急斜面で、私は川から這うようにしてその急斜面にへたり込んでしまいました。もう立ち上がることすらできません。

 たった今の今まで元気よく川を上ってきたのに、急に立てないなんて。こんなことは一度も経験したことがありません。突然のことに一体どうしてしまったのか理解できませんでした。

 このままでは野営地に戻るどころか、ここで夜を明かさなくてはならなくなるかも知れません。もう釣りのことはすっかり頭から消え、「助かりたい」と強く思いました。

 気がつくと夕まづめの時刻が近づいていました。何か異変が起こっているのは確かです。

 原因不明の脱力感に、何かが「憑いた」気がしました。

第4話
 呼吸を整えながら、私は小さい頃、母に言われたある言葉を思い出していました。

「あらよぅ、こん子にダラヒケさんの憑いたっち。」
私が発熱か何かでぐずると、決まって母はそう言うのでした。長崎県五島の方言で、
「あらまぁ、この子にダラヒケさんが憑いてしまったわ。」
という意味です。

 「ダラヒケさん」とは「陀羅尼助丸」という昔からある家庭常備薬のことです。母の郷里の五島では、体調がすぐれないときには、とりあえず「陀羅尼助丸」を服用するという頓服薬のようなものでした。
 つまり、「この子は陀羅尼助丸を飲まなさなくてはならないほど具合が悪くなってしまった。」
という意味で母は言ったのです。

 しかし、幼い頃の私は「ダラヒケという何か悪いものに取り憑かれた」と受け取っていました。

 その日そのとき、
「そうか、今、ダラヒケさんが憑いてしんどくなってしまったのか。」
と、得心したのでした。

 すると、こんな状態のときに使うあるおまじないがひらめいたのです。

第5話
 そのおまじないとは、「手のひらに米という文字を書いてパクリと食べる動作をする」というものです。「飢饉で死んだ亡者に襲われたときに効く」と水木しげるの「のんのんばあとオレ」という本に載ってありました。
  もう迷うことなくそのおまじないに委ねることにしました。 
 その前に、ここから助かるには、おまじないの後、どのルートで野営地に戻るかを考えなくてはなりません。遡行してきた渓流を引き返す体力はとてもなさそうです。林道があればよいのですが。

 この急斜面を登りきれば林道がありそうです。ただ、そこまでの体力があるかどうか。
 しかし、もうこのルートしか助かる道はなさそうです。

  そうと決めたらすぐに、左の手のひらを広げ、右手で一画一画数えながら「米」と書きました。そして、一口でその「米」を口に含み、喉の奥へ送り込みました。

第6話
 すると、みるみる体中から力が湧いてきたような気がしてきました。

「よしっ、今だっ。」
ロッドを握りしめ一気に斜面をかけ上がりました。

 林道に着いたとたん、ジェット機が背中から頭上を飛び越すような轟音が聞こえました。
 すぐさま空を見上げましたが、何も見当たらず、山には夕暮れが訪れようとしていました。

 体力は少しずつ戻ってきています。足取りも軽くなり、義父の待つ野営地へと無我夢中で下りました。

 野営地へ着くと、義父が立派なかまどをこしらえ、どこからか焚き木を山程集め、満足気にその前に陣取っていました。

 私は、先程体験したことをまくし立てましたが、義父は大して興味がなさそうでした。

    『川辺の足音 前編完』


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