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安楽死について考える

毎週土曜日にTwitterデモ「#国は安楽死を認めてください」というものが
19時からある。
自分が予後不良の病気に罹患していると分かってから私も参加するようになった。

安楽死を認めている国はある。カナダやアメリカ(州による)
スイス、オランダ等々だ。
私自身は安楽死を認めてほしい派だ。
これは自分の病気の件もあるが、父の最期を看取ったことが大きい。
他界する前の1か月余り、相当に苦しそうだった。
そりゃ苦しいだろう…肺の病気だ。呼吸が思うように出来ないのだから。
私の前では何度も何度も逝かせてほしいと言った。
3人の子供のうち、自分に一番思考が似ている私には話しやすかったのだろう…
結果、亡くなる前日まで苦しんで、苦しさ故にか意識を失って他界した。

本当に日本の医療はこれでいいのか?
ただただ延命することが、本人が望んだ結果なのか?私は望まない。
延命など残された人間の自己満足でしかないと思っている。
最期まで見捨てなかったという免罪符でも欲しいのか?
あんたたちの自己満足の為に辛くても生かされるなんて
患っている側からすればたまったもんじゃない!

夫が若いころから口癖のように言う言葉がある。それは
「自分がされてイヤな事は他人に絶対にしてはいけない」だ。
自分が下っ端の時、上司のパワハラに遭ってきたから
自分が上司になった時は下の者にそのような辛い思いはさせない。
いつもそのように考えて、今でも実行しているという。
だから私は何かある度にこの言葉を思い浮かべ
今自分がやろうとしていることは
自分がされたらイヤだと思う事ではなかろうか?と立ち止まって考える。

延命においてもそうだ。意識もなく管に繋がれ、胃に食物を流し込まれ
それが嬉しい、有難いと思えるかどうか立ち止まって考えてほしい。
きっと、そんなことまでしてほしくないと考える人が多数ではなかろうか。
それなのに家族にはそれを強いるのか…矛盾している。
もちろん、そうしてまでも生きていたいという考えの方もいるだろう。そういった方は延命したらいい。
なにも嫌がってる人に無理やり安楽死を…と言っているのではない。

安楽死制度の制定は、私にとってはお守りみたいなものだ。
制定されたから、はい!安楽死します!というわけではない。
今の病状がずっと安定しているのなら、そんな制度は使わない。
ただいつか、自分の呼吸がままならなくなって、苦しくて苦しくて
仕方のない時に「この国には安楽死制度がある」という心の拠り所に
なり得る制度だと思っている。
この制度があるから安心して生きていける!そんな風に思って
死ではなく生に心をシフトする方も増えるのではなかろうか。

安楽死制度の議論が一日でも早くなされるよう願ってやまない。
せめて私が生きている間に制定されてほしい・・・・・・


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