見出し画像

徒然なるままに…追憶(小学校編)

先日までの疲れを取るために、午前中はゆっくりと休み(爆睡をしていた笑)、午後からは甲子園の決勝を家のテレビで観ていました。

私の趣味は何個かある

・音楽鑑賞、ライブに行く
・温泉、サウナに行く
・神社仏閣めぐり(御朱印集めもたまに)
・感動系のドラマ、映画で涙活
・夏は高校野球を観る

など、あります。

その中の高校野球について今日は書かせて行こうかと思います。
今日の甲子園決勝は結論から言うと、慶應(神奈川)と仙台育英(宮城)の試合で、8対2で慶應が勝利しました。何と甲子園が現代の形になる前の107年ぶり2回目の優勝とのことです。

当時は”全国高等学校野球選手権大会”という名前ではなく、”全国中等学校野球選手権大会”と言う名前で、学制も現在の6・3・3・4の制度ではありませんでした。
また、慶應義塾高校ではなく当時は”慶應普通部”と言う名前だったそうです。現代の様に49の都道府県(北海道、東京は2つずつ)の代表ではなく、各地域ブロック、そして戦前だったので、加えて満州、台湾、朝鮮の中等学校の出場もありました。
(戦争のため1946年からはそれらの3つは消滅しましたが)

私は小学生の頃に、少年野球をやっていました。これが後の人生において野球が好きになるきっかけでした。
当時難癖つけて遊びたかったので私は”練習に行きたくない”といつも母親に言っていました。その様なことを言っていると、父親に「デルタ(私)の方から野球をやりたいと言ったんだから、とりあえず小学校卒業までは続けなさい。中学校は何してもいいから」と言われたので、とりあえず友人とゲームをしたり、外で遊んだりする以外は嫌々と続けていました。

転機は小学5年生の秋から冬です。その頃、監督(小学校の先生)が、来年に向けてレギュラーと背番号を発表する、と。
私は5年生の頃まで週2回程度しか練習に来ていない。ただ、毎日来ている部員は同じ学年の中の13人?中、3人くらいだったので、私は自然と背番号5のサードのポジションを頂きました。
(競合はほぼいなかったので…)

ただ、そこで問題。肩は良かったがコントロールは抜群に悪い。更に守備なんてものは下手くそで、唯一の救いはバッティング。ただ、学校のクラブの野球でしかないので、アベレージヒッターでも守備が上手い人がレギュラーになる傾向がありました。一度だけ投手をやらないか?と言う案も出たのですが、監督に全力のスピードボールを投げるとストライクゾーンに入らず、更にシュート回転するらしく、監督曰く”安定感がない”のでそのままサードになりました。

背番号は5番だったけど、一つ下の学年の子(背番号は10番代の兼投手だった人)にサードのポジションを取られ…

そんなこともあり子供の頃は子供ながらに悔しかったですね。ノーコンスピードボールと打撃センスだけの12歳の少年はいつもベンチスタート。応援歌だけは今でもメロディだけは覚えています笑
(ゴーゴーレッツゴー〜、〜、◯◯のバッティング!イェイ!イェイ!イェイ!…)
今思い返すと爆笑ですね笑

一つ…実は6年生の時、下級生の部員の子のことを掃除の時間に、その下級生の部員の弟さんに軽く「◯◯さー、もう少し守備練習とキャッチボールはした方がいいよ!そうでないと、試合にでられないからさー」と。
その後、弟さん伝えにそれが監督に伝わり、一人部屋(教室)で説教されました。その時、今思えば子供ながらにとても酷いこと言われた…むしろ今でも心の奥底に残っていることがあります。

監督は「デルタはさ、注意するのはいいけどさ、教えてあげるくらいでいいだろ!それに、お前は”うまくないくせ”にそんなこと◯◯に言うなよ!」と。

ん…”うまくないくせに”
今でも覚えています。子供ながらに傷を初めて負ったあの時を。
でも、大学生くらいの時に、小学校から高校まで同じ学校だった友人にその話をしたことがあります。確かに私に非があったことは確かです。しかし、”うまくないくせに”はあんまりじゃないですか?
ただ、’90年代ってまだまだ根性論が強い時代で特別何かがないと普通に怒られる時代でもあったのです。
そう思うと諦めもつくところもあります。ただ、小さければ小さい頃ほど、大人の言葉一つでその子の人生は変わると言うことを今の私ならわかります。

某県S先生は当時まだ若かったからしょうがないとも思いましたが。今はもしかしたら校長先生でもやっているのかなぁ。(調べたこともないのでわかりませんし、地元のことはあまり考えないように生きてきたので情報はありませんが…)

小学生のあの時代、男子とも女子とも円滑なコミュニケーションが取れている自分がいました。女性の方が成長過程が早いからなのか、私は気にもとめていなかったが、当時、同じクラスの女の子に初恋をした記憶があります。

勉強もできてスポーツもできて、少し怖いけど、話すと楽しい。そんな女の子に、いつも「デルター!何してるの?遊ぼうよー…」、、、そんな無邪気な子供の頃を思い出してしまいました。
少年野球をやっていた頃は、例の監督に怒られた以外は基本的に(子供ながらのトラブルはありましたが)、何もかもがうまく行き、悩みといえば、中学校に怖い先生がいる!や、市内で一番荒れてる中学だから行きたくないや、イジメも多いらしいとか、、、

実はそれらの影響で中学生以降、小学生まで順調だった人生が激変します。それらは今後どこかで書こうかとは思います。

私が小学生の頃に流行っていたアーティストの歌を一つ挙げてみます笑

SPEEDの”White Love”です。当時かなりブームでとても印象に残っています。学校で私は当時音楽に興味がなかったのであまりわからなかったのですが、女の子を中心に話していたのを今更ながら思い出しました。(いわゆる思い出ですね)
後はポケモンの赤緑の時代で私は友人とポケモンに熱中していましたね笑
通信ケーブルでポケモンを交換したり対戦したり。

概要:少年は冒険の旅に出る!

『ポケットモンスター 赤・緑』は、ポケモンの最初のソフト。カントー地方のマサラタウンに暮らす主人公は、オーキド博士から1匹のポケモンをもらって冒険の旅に出る!

違い:どっちを選ぶ?『ポケットモンスター 赤』と『ポケットモンスター 緑』のパッケージ

『ポケットモンスター 赤・緑』に登場するポケモンは、ぜんぶで150種類。『ポケットモンスター 赤』と『ポケットモンスター 緑』は、それぞれポケモンの出現率が異なり、片方だけにしか登場しないポケモンがいる。ポケモンをたくさん集めるためには、別バージョンとポケモンの交換をする必要があるのだ。友だちや家族といっしょに楽しもう!

https://www.pokemon.co.jp/game/other/gb-rg/

とにかく、小学生の時に4年生からクラブ加入が認められて、同じクラスのほとんどの男子が入る中、私も入部。どんどん部員が減っていったが、私は卒業の6年生まで続け、背番号5とサードのポジション、代打要員として主に活躍し同級生の13人の中の1人となる。
(当時の監督は続けた人には上手い下手は関係なく学年の上の人に背番号を上げる方針みたいでした)

うん。趣味や野球について書こうと思っていましたが、野球に初めて触れたキッカケなどを書いてしまいましたね。

野球が本格的に好きになったのは中学生になってからですが、そちらは中学生の頃の話として簡単に書いてみようと思います。
私が精神疾患を発症してからは主に音楽とドラマや映画、そして野球に助けられてきました。
音楽や映画は高校時代に体験できなかった”本当の意味での青春”を感じることができるし、野球は球児の汗と涙、そしてドラマが待っているから。

中学生以降のこと、音楽についてはまた次回以降書こうと思いますので、その時読んで頂けたら幸いです。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

デルタ

この記事が参加している募集

自己紹介

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?