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311 あの日の記憶を辿って

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3月11日14:46大地震
3月17日 父発見
3月22日 父と対面
3月28日 仕事再開
4月4日   火葬
4月24日 葬儀・納骨

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途切れ途切れだけれど、記憶の糸を辿ってみようと、ようやく思えるようになったので、ここに残しておこうと思います。

あの日、私はバイト先のビルの3階で忙しなく働いていました。
数日前にも大きな地震があり、最初はすぐ収まるだろうと思っていたら、どんどん大きくなって、長く長く揺れは続きました。
机の下に潜り、何が起こったのか、何が起こっているのか、ビルが崩れるんじゃないかと頭の中がパニックになり、身を隠して揺れが収まるのを待っているのが精一杯でした。

ようやく揺れが収まったタイミングで、「次の大きな揺れが来ないうちに」と近くの公園に避難することになり、急いで、でも焦らず、階段を降りて外に出ました。
パトカーから「津波が来るので逃げてください!」のアナウンスに「まさかぁ、ここまでは。」なんて声があちこちから聞こえてきました。
公園について人数を確認し、どれくらいの時間がたったのだろう…安全を確保しながら荷物を取りにいき解散。

途中まで仲の良い先輩と社員の方々と一緒に帰り、労いの言葉とともにそれぞれに別れ、1時間半後、当時住んでいたアパートに辿り着きました。
帰り道、父や母や兄に何度も電話したけど繋がらず、ようやく叔母につながり「生きている」と聞いて安堵しました。その時は。
大きな看板やビルが崩れ見慣れた景色は一変し、部屋の中もぐちゃぐちゃ。幸い築30年以上経っていた古いアパートは崩れることなく朝と同じそこに建っていました。

「津波」
この言葉が頭の中にこだまする。
家族経営の小さな工場は海の近くにありました。叔母が言うには「お母さんは先に家の様子を見に帰ってるって。その後、みんなも帰るって言ってたよ。」と。
今は、その言葉を信じて待つしかない。電話も繋がらない。信じるしか今はない。
ぐちゃぐちゃになったアパートの部屋で、しばらく何も出来ずにいました。
ほどなくして、一緒に住んでいた彼が、会社から借りてきた自転車で帰ってきました。
よかった。生きてた。

アパートにいるのが怖くて、その日は避難所になっていた中学校の体育館へ行きました。
たくさんの人で溢れかえる中、2台のストーブの周りにはすでにたくさんの方がいて、寒さで凍えながら一夜を明かしました。夜中もずっと大きな地震が続き、ほぼ眠れないままアパートに戻りました。

(必死すぎて、その後の記憶が曖昧なのですが…おそらく)
地震から2日後(翌日だったかもしれません)、「寒いといけないから」と毛布を片手に自転車に乗って実家へ帰りました。
自転車で1時間半の道のり、何往復したことか。
私が住んでいるアパートは幸いにも水はでたのですが、実家は水も電気もガスももちろん出ず。給水車は全然来なくて、兄たちが自転車で1時間かけて水をもらいに行き、残った私たちは小学校のプールへトイレ用の水をもらいに行きました。
ご飯は、石油ストーブの上で冷蔵庫にあった食材で作り、ストーブと懐中電灯の灯りの中、みんなで食べました。
冷蔵庫の食材が無くなった後も、幸い母がたくさんの備蓄をしてくれていたおかげで、食べるものには困りませんでした。

その間、父と上の兄とは連絡が取れず。

地震から数日後、玄関のチャイムが鳴り、そこに立っていたのは上の兄でした。
思わず「お兄ちゃん!!」と声がもれ涙が溢れてきたような気がします。
よかった、生きてた。

兄は、工場の中にあったプレハブの事務所(2階)へ上がったけれど、津波がぐんぐん迫ってきて事務所の屋根に登り、ギリギリのところで水が止まったそう。
そこで一夜を明かし、変わり果てた景色を見ながら、友人のバイクに乗せてもらい帰ってきました。
一緒に働いていた下の兄は、通りかかった車に乗せてもらい高台に避難して難を逃れ、水に浸かりながらも歩いて実家に帰って来たそう。

でもまだ父が見つからない。

ネットで名前を入れると生死の有無を確認できるサイトがあるよと教えてもらい、毎日毎日「どうかどうか生きていて」と何度も何度も確認していました。
兄たちはガソリンを分けてもらい、毎日毎日、父を探しに行っていました。

そして、3月17日
ようやく父が見つかりました。
泥だらけになった父を確認したのは、上の兄でした。
辛かっただろうと思います。

もう亡くなっているんだろうと思っていても
探していた日々が、こんなにも苦しく辛いなんて想像もしていませんでした。
見つからなかったら諦めがつかなかったと思います。
「見つかってよかったね」
家族がそれぞれ口にした言葉でした。

実家は少し山のほうにあるため、ライフラインの復旧は中心部よりだいぶ遅れていて携帯の電波も繋がらず、ガソリンを分けてもらってから、車で15分くらいの水道局に飲み水を汲みに何度か通いました。そこは電波が繋がっていたので、連絡を取ったり会社から電話が来たり、ようやく近況を報告することができました。

3月22日ようやく父と対面できました。

連絡が来るはずだったけれど一向に来ず(現場はかなり混乱していたのだと思います)、安置所にとりあえず行ってみようということになりました。
最初に2人の兄が確認しに行き、戻ってきて
「気を確かに持てよ」と私の目をじっと見つめ精一杯の優しさで伝えてくれました。
昔家族で行った元ボーリング場。
だだっ広いそこには、等間隔に並べられたたくさんの棺がありました。
小さな棺もたくさんありました。
綺麗に洗ってもらい毛布に包まれていた父は、まるで眠っているかのようでした。
着ていた服や持ち物がビニール袋に入れられ棺の横に置かれていました。

帰ろうかと棺から離れ椅子に座っていた時、母はガタガタと震え出し、近くにいた警察の方に毛布を貸していただけないか頼み、母の肩をギュッと掴んで「しっかりして!」と言うことしか私にはできませんでした。
我に帰ったのか母の震えは止まり、「もう一度顔を見てくる」と父の傍に行きました。

それから順番に葬儀場に移されました。
びっしりと並んだ棺の中から父を探し何度も何度も顔を見ていました。
ふと顔を上げると、近くにいた男性が同じように棺の中をじっと見て涙を流していました。もしかしたら恋人だったのかもしれません。
手に持っていたポケットティッシュを差し出そうとしたけれど、2人の間に入っちゃいけない気がして、そっと手を戻しました。

4月4日
葬儀場でお経をあげていただき無事火葬することができました。
まだまだ道路もガタガタの中、たくさんの方が来てくださいました。

4月24日
葬儀と納骨を済ませ、ようやく一区切りできたような気がします。

まだまだ涙は溢れるし、震災関連の記事などは直視できないけど、13年経ってようやく何か残そうと思えるようになりました。


「人はいつどうなるかわからない。
  明日は必ず来るとは限らない。
  だから、やりたいことは今やろう。」

父が身をもって教えてくれたこと。
だから私は、実店舗をオープンすることができました。

ありがとう。
まだまだやりたいことがあるからさ、
行きたいところも見たいところもあるからさ、
どこかで見ていてね。


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