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古典から学んだ事(週末日記#11)

三蔵法師(玄奘)の人生から学べること

玄奘とはどんな人か

三蔵法師、別名: 玄奘(げんじょう)と聞いたら西遊記を思い出すのが一般的だろう。僕もその程度の知識しかなかったが、彼に関するラジオを聞いていて「面白い、これは生きる上で参考にできる考え方が多くある」と感じたので文章としてここに残しておく。

簡潔にまとめると、玄奘は、629年に仏教をより深く理解するべく、中国から、仏教の生まれた地であるインドに陸路で向かい、17年間を通して地球1周半の距離を(馬なども使用して)歩いた人物である。中国に帰還後は、ヒンドゥー語から中国語への翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗(仏教の宗派のひとつ)の開祖となった。

その当時の中国からインドまでの陸路での道のりは困難を極めた。氷山を乗り越えるために、極寒の地で寝泊まりをしながら山を越えたり、サハラ砂漠を(もちろんGPSなしで)4日間、水と食料なしで歩いて超えたりと、さまざまな奇跡が重なって成功したと言っても過言ではないほどに過酷な道のりを歩いた。

簡潔に言うと、学問を極めるために、地球一周半を17年間かけて歩ききった人物である。

玄奘の優れた交渉術

玄奘が優れていたところは頭の良さや忍耐力だけでなく、交渉力にあったと言われている。

インドまでの道のりの間、多種多様な民族の地や国を通っていかなければならなかった。昔は国の出入りさえ容易にできることではなかったため、捕まって牢獄に入れられたことは数えきれないほどある。しかし、17年間死なずに帰ってこれたのは彼が人を説得する交渉力に長けていたからだ。

もちろん、彼が頭がよく学問に精通していた人物であったために話をするだけで感銘を受けるものたちも少なくなかった。しかし、その豊富な知識だけではなく、いつも彼が交渉をする際に意識していたのは、「自分の旅を続けさせてくれることがあなたに、あなたの国にどういったメリットを生み出すか」と言うことだった。説得されたものたちは、結局、食料や馬、家来たちをつけて旅をサポートしてくれる存在になった。すなわち、敵を味方につける能力が非常に優れていた。

現実にどう活用するか

これは今の世界でも非常に有効活用することができる技だと思う。ビジネスであれ、普段の生活であれ、誰をも味方につける能力があればどんな困難であれ乗り越えることができるようになるだろう。玄奘から学べることは、双方にいい影響があるということを分かりやすく伝え、助けてもらうことの重要さだ。

例えば、社会起業をするときの資金調達であれば、社会的インパクト指標を示すことがそれに値するだろう。すなわち、あなたが投資してくれることによって社会はこれほどの良い影響を得ることができます、と言うことを具体的に分かりやすく示す手段である。この手段は、自分のお金を、最大限の社会的価値を生み出す手段として使いたい、と思っている投資家であれば有効な交渉手段として使えるだろう。単に「僕の事業を成功させるためにお金を貸してください」とお願いするのではなく、「あなたの”社会貢献がしたい”と言う欲を我らはどの会社よりも満たすことができます」と主張することだ。

このように、玄奘が得意としたことは、交渉や頼み事をするときに、単に相手の善意に任せてひたすら頭を下げるのではなく、相手にとってのメリットは何か、自分の頼み事を承諾することで相手は何を得ることができるのか、そう言うところを事前に考え、交渉に取り掛かることだったのではないだろうか。もし、これが正しいとすれば、17年間の道のりを生きて帰ってこれたのは奇跡ではなく正真正銘の実力だろう。

陽明学をどう行動原理に活かすことができるか

陽明学と朱子学

陽明学とは儒学の一つである。のでこれらを語るには、儒教の話をしなければならないが、この記事では読者の方により親しみやすく読んでもらうため難しい話は極力避けることにする。

儒教とは簡単に言うと、「修己治人(しゅうこちじん)」(己を修めて、人を治める、という意味の朱子のことば)の学である。この学問は元々、自分を成長させて人を治めることにフォーカスした政治学として使われていた。

陽明学を語る上でさらに知らなければならないのが朱子学だ。これは「全てのもには理があり、その理を追求することが己を修めることに繋がる」と説く学問である。すなわち、魚が泳ぐのも、鳥が飛ぶのも、全て原理原則が存在し、それを理解することで全てのものについての理解ができる、と言うことだ。

これに反して出てきた学派の一つが陽明学だ。これは「理というのは己の心にあって、自分が正しいと思うことをすることが正である」と説く学問だ。すなわち、朱子学は論理的であることを正とし、陽明学は自分が正しいと思う心を正としている。(この心を正とすることを「心即理」という。)

これらの学問は生きる上での考え方の一つとして、現代にも容易に有用することができるため、多くの人に親しまれている。

陽明学をどう現実の世界に置き換えるのか

現代の生活に置き換えて、もっと簡単に説明してみよう。

陽明学は性善説、つまり、人は生まれながらみな、「良い心」を持っていることを前提としている。よって、自分が正しいと思うこと(何のつっかえもなしに気持ちよく正解だと言えること)をすることが正しい行動であるということだ。朱子学は自分が正しいとかは関係なしに、原理原則に従って正しいか否かを判断するべしと説いている。

さらに陽明学では「知行合一」という言葉が存在する。知ることと行うことは同じでなければならないという意味の言葉だ。正しいと思ったならば行動するべきであって、行動をしないということは正しいと思っていないということだ。これは陽明学を作った王陽明の弟子たちも理解に苦しんだというほど難しい考え方であるが、言わんとしていることはわかるだろう。

例えば、あなたが今の仕事(例えば金融業)に飽きてきて、昔から思っていた社会貢献に携わりたいと思って転職を考えていたとしよう。王陽明によれば、その行動が社会にとって良いと素直に感じ、もっと住みやすい世界を実現することが正しい世界だと思うのならば、今すぐに転職するべし、というわけだ。ここで転職を躊躇しているということは、「社会が良くなることが正しいと思っていない」ことを証明することになってしまう。

ちなみに、これを朱子学的な行動に当てはめてみると。現在の金融業に残り今まで通り働くこと(例えば、窓口で人々にお金を貸すこと)と、社会貢献活動に実際に加わり現場で働くこと、どちらがより大きな社会貢献につながるのかを徹底的に下調べしてから理にかなった選択をするべし、ということになる。

朱子学も陽明学も現代の社会を生きていく上での自分の行動原理として有効活用ができることはこれだけ見ても明らかだろう。どちらが正解とかはない。自分がしっくりくる方を選び、自分が何かの選択で迷っている時の原則として使うと、より自分を信じて行動することができることになるだろう。

締め(なぜ中国古典を学ぶのか)

これは文の締めとして相応しくないのかもしれないが、僕が三蔵法師や陽明学から学ぶことがあると感じたきっかけと理由を記して締めようと思う。

出会ったきっかけは、Kotenラジオという歴史を面白く解説してくれているラジオ番組が好きでランニングや筋トレの最中に聞いている時だった。歴史上の人物の考え方や生き方を知ると、自分の中でも一度考えたことあることや悩んでいることに共通することがある。それが今回は三蔵法師の、誰でも仲間にしてしまう交渉術と、自分が正しいと思ったことを行動に移すという陽明学であった。

特に後者は、考えすぎて行動に移せずに終わってしまうことが多かった(今もまだ発展途上ではあるが)自分にピッタリ合っていた。この考え方に出会ったときはうまく言語化できないが、「歴史上の人物も同じようなことを考えていて、その答えまでを出しているんだな」と感心した。人生をかけて導き出してくれたことを使わずに同じようなことを悩むなんて馬鹿らしいと思い、いっそこの人たちが言っていることを信じて真似てみようとなって今に至る。

歴史を学ぶというのは、こういう出会いがあるから面白い。ただ過去に起きたことを事象として捉えるだけではなく、彼、彼女らの考え方や失敗の原因を知り、自分だけの一度の人生では得ることのできない学びを、彼らの人生を借りて経験することができるのだ。これは現代に生きる僕たちの特権であり、使わない手はないだろう。

では。また次の記事で。



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