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BL以前耽美小説の源流、森茉莉著「恋人のたちの森」

タイ、台湾、韓国とBLドラマとジャンルわけされるものをここ一年半に多く見るようになった。それはこの状況下で、軒並み新ドラマが届かなくなった日本ドラマの試聴時間にごっそり取って代わってテレビ画面を占領した。

そんな時、とある本でBLの変遷の起点として挙げられていたのが、森茉莉さんの「恋人たちの森」

ここに表されているモチーフが、その後のBL作品に影響を与えていると書かれていた。いわゆるこの頃は「耽美」と呼ばれるジャンルにされていたと思われるが、起点と言われると興味が湧き早速読んでみた。

森茉莉さんは森鴎外の娘さんで、ウィットに富んだ文章、お嬢様としての経験からくる豊かな知識を詰め込んだエッセイが魅力。小説は今回初めて読むことになる。

この「恋人たちの森」は表題作を含む全4編。全体的にこの物語を覆うのは決して幸せではない恋である。

まずは一つ一つの物語を紐解いてみる。

1.ボッチチェリの扉

田窪というかつて隆盛を極めた豪邸に由里(ユリア)が間借りし始めたところから始まる。財政に窮したのか、女主人は空いている部屋をいくつか間借りに出し、そこに棲みつくのはやや難のあるものばかり。
田窪家には、ヒステリックで高圧的な絵美矢夫人の他に、いわゆる引きこもりのような生活をしている美少年だが寡黙な次男沼二の他に、少女から大人の女へと成長していこうとする次女の麻矢がいた。絵美矢夫人は傾きかけている田窪家を救う最後の望みは、麻矢の結婚であると躍起になっている節もある。
その麻矢は母の願いを知りつつも、自身の好奇心と想いには勝てず、1人2人と経験を重ねるたびに女としての魅力を開花させていく。

2.恋人たちの森

見目麗しい美貌の十代の青年パウロを見初め、恋人にしているフランス文学助教授のギドウ。ギドウからの施しで不遇な状況を脱し贅沢な暮らしにその魅力を開花させたパウロは若者らしい好奇心に満ちた体を持て余しつつある。露呈してはならない秘密の関係は、カムフラージュとしてお互いが持つ別の恋人からの疑惑によりそのバランスが崩れ始める。

魅力に満ちた2人の男に関わった女の、悲しい結末とは。

3.枯葉の寝床

三十代半ばのギランは両親の遺産と助教授や書物の収入で優雅な暮らしをする男。その財力と余裕で、十代の頃に拾ったレオに何でも買い与え恋人として贅沢にさせていた。
そんなレオがオリヴィオという男のサディズムに触れ徐々に自分の中の欲望に気づき始めた頃から、自分から離れていく未来を恐れレオをさらに束縛していくギラン。レオの中に息づくマゾヒズムを感じながら、ギランがレオに捧げてきた様々なものを思うとき、彼の胸に去来するものは何か。

4.日曜日には僕は行かない

有名作家である杉村達吉と美貌の愛弟子である伊藤半朱(ハンス)。師弟を超えたただならぬ関係の色を感じながらも、半朱はまたとない出会いで恋心を受け止める他に考えがなかった与志子と婚約した。それ以来半朱の心持ちもあって次第に距離が遠くなった2人だったが、ふとした再会から達吉に説得された半朱は相反する想いを抱えながら、与志子と婚礼の準備を進める合間に達吉とも再び会うようになる。

耽美小説とBL

ストーリーを読むとわかるように、1〜4までの物語で男性同士の恋愛いわゆる耽美小説と分類されるものは、2〜4の三作である。

そこには耽美小説では馴染みとされる2人の関係性が見て取れる。

1人は優雅な生活をしているいわゆる地位の高い人間であり、その相手とされるのは年下の美少年。その仲は決して他人には漏れてはならず、あからさまに恋人のような暮らしをしている2人だけれど、おおっぴらにその関係を暴露するものではない。時には異性の相手がいる場合もある。

オープンにできないゆえの悲劇があり、苦悩や欲望もそれに由来することが多い。そして永遠という言葉が介在しない関係性が否定的な結末へと向かう要因になっているようでもある。

裕福な経済事情が恋人を囲うことを許し、それに応える形で寵愛を受けるという2人には見るからに危うい取引がされている。

これからの可能性を存分に秘めた未開花の美少年と、中年に差し掛かった世間的には常識人という組み合わせは社会の目から逃れなければならない運命とともに、悲劇的な要素を常に含んでいる。

そこには現在のBLと呼ばれるジャンルにある初々しい恋愛ストーリーや、互いを認め惹かれ合うという明るい青春物語は含まれない。

全体的に、耽美というジャンルには重厚で背徳的な匂いが漂うのだ。

もともと耽美小説とジャンル分けしたものがそのままBLと名を変えたとする考えもあるようだが、その創作要素には陰陽と分かれるほどの差があるように思う。

この小説に見る耽美というジャンルについて

BLは商業寄りの言葉とされることが多く、そこには前身とも言える「やおい」も関係してくるように思う。

「やおい」は「まもちもみもない」と当時の作品の題名に引っ掛けて作者が自嘲をこめて言い始めたもので(作品を批評する時に悪い例として用いられていた言葉とされる)、これは男性同士の恋愛物語を生み出す上で一定の役割を果たした言葉と言える。

2000年代初頭から、Boy's Loveの頭文字を取って名付けられた「BL」がより認知度の高い名称として広く使われるようになって、今は一定の認識のもとにより広い層に受け入れられている。

そう思うと、耽美をそのままBLに移行というのはやや強引かなと思うのだけれど、時代に即して文学も形を変えていくというのであれば、耽美は男性同士の恋愛の濃いところにスポットを当てたというよりは、さまざまな愛の形の「苦悩」を表す一つの手段として用いられたような印象を受けた。実際に性的な描写に規制のあった頃に、男性同士のものならば許されると言った時代の抜け道の表現だったとしている記述もある。

あくまでも苦悩の対象は体裁や社会的な事情によるもので、愛そのものの成り立ちにはさほどの疑問は抱かせていない。今も昔も当然にあった恋愛物語として、悲恋の結末を自然に描きやすいものとして取り入れられたような感じもある。

若い愛人を金銭的にも精神的にも恵まれている年上が囲って溺愛する、男女がどのパーツになったとしても成り立ちそうな組み合わせは、男同士とすることであまり肉欲的になることなく、美しく描き出すことが可能となるのではないか。

森茉莉さんの「恋人たちの森」を読んで

いずれにしても、豊かな言葉遣いや表現で、互いの魅力と愛憎を炙り出す森茉莉さんの筆致が見事で、これからも読み伝えられるのに十分な魅力を内包していると感じた。一部、古い言葉でわかりづらいものや、難解な部分はあれど物語を邪魔するほどではなく、読み応えも充分。
1961年に初めて世に出た作品だけれど、現代に置き換えても映像化などさまざまな可能性を秘めた物語であるように思う。

特徴は、登場人物たちの名前。大抵、年上の方が恋人である少年を「通称」で呼んでいる。事実に即しているのかは不明だけれど、本名は別にして年嵩の方が決めた名前で呼び始めることが「秘密」めいた関係を濃く感じさせ「独占欲」を満たすものとして象徴的に用いられているように感じた。

森茉莉さんがどのような意味合いを持ってこのような作品を生み出したのかは分からないけれど、レトロな語り口で展開される恋愛ストーリーはドラマティックで、ミステリーで言えば松本清張のような特定ジャンルの大御所であることは間違いないように思う。

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