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リベラル差別社会

某所で精子バンク利用問題に端を発する『リベラル優生社会』という衝撃的な文言を見て少し考え込んでしまったのだが、森会長の辞任問題とその反応を見ていて、やはり現状の「リベラル」社会の推進=新たな「差別」の誕生ではないかという思いが強くなった。

「リベラル優生社会」という言葉を考案した人や私が最近のリベラル思想自体の差別性に敏感なのは、「発達障害」や「精神疾患」「高次脳機能障害」「認知症」といった一般的な社会適応が難しい人々と日常的に接し、またそういう人の世話に関わる仕事をしているからだろう。

彼らが推し進める社会正義は、人文学的に確立された差別概念、たとえば人種、ジェンダー、宗教などに関して、(1) 差別的な言動を行う人を糾弾して排除すること、(2) 構造的な差別をアファーマティブ・アクションも利用しながら矯正すること、にあるといえる。しかし、現実にこの問題に向き合おうとすると、文化や世代によって人々の生きてきた環境や常識が大きく違うため、非常に複雑な配慮や調整が必要になるという点に気づく。

もっとも分かりやすいのが,今回の事件でも明らかになったジェンダーに関する世代間の認識の差だ.

たとえば、現在の70歳台後半から上の世代は亭主関白が当たり前の価値観であり、多くの男性が「女は男よりも格下」で「女は家で家事をして、男は外で働くか遊ぶもの」だと思っている。SNS上でどれだけ女性の社会的進出が叫ばれようとも、定年退職して囲碁クラブに興じている老人にとっては関係のない話であり、「女性が子育てをせず仕事するのはけしからん!」と思っている人も多い。

このような高齢者層というのは、森会長のようにふとしたところで自分の世代の「当たり前」が出てきてしまうし、若い世代に対しても自分たちの「当たり前」をもとに,良かれと思ってアドバイスをしてしまうことが多い。さらに悪いことに、マイルドな認知症がはいるとその傾向は輪をかけてひどくなる。認知症は遠い過去の出来事や考えはよく覚えているが、最近の出来事や社会情勢の変化を忘れてしまう病気だからだ。また,高齢者は前頭葉機能の低下によって、ツイフェミほどではないにしても、放言したり、すぐ怒ったりするという特徴が少なからずある。

ではこういう人は社会から徹底的に排除されるべきなのだろうか?彼らは敬われるべき『お年寄り』であり、『社会的弱者』でもある。脳機能の低下や交友関係の違いによって新しい価値観を体得できないだけであり、若者よりも長い人生経験を積んできた知恵ある先人であることにも間違いはないだろう。彼らにも昔の価値観のまま安心して最期まで暮らせる社会が「権利」として必要であり、しかもそれは決して若者のニューノーマルな社会と断絶すべきものでもない(現実問題として高齢者だけで社会は作れない)。無論、世界の若い人が集まるオリンピックの代表にこういう人が居座ることは避けたほうがいいだろうが、彼らを社会から駆逐しようとばかりするマスメディアやリベラル勢力は、価値観がどうしてもアップデートしづらい人々の権利を守ることを忘れているのではなかろうか?

同様のことは発達障害の人々にも言える。アスペルガー症候群などの自閉症スペクトラム障害では、他人の気持ちが推測できず、思ったことをすぐに口に出してしまうという特徴がある。しかし、すべてが障害者として暮らしているわけではなく、IQが高かったりすると気づかれず社会の重要な位置で活躍している人もいる。こういう人にとって、状況によって複雑な配慮が必要な「多様性」社会は適応するのが非常に難しい。特にキャンセルカルチャーのように、一つの言動をもってその人の地位や過去の実績までもを貶めようとするある種の『いじめ』が正当化されてしまう現状では,安心して社会で過ごしていくことはできないだろう。

しかし、よく考えてみればそれは彼らの持つ障害やハンディキャップの影響であって、むしろ配慮されるべき特性でもある。ある障害を持つ人が別の弱者性を持つ人を、その障害特性によって差別してしまう、ということは十分に考えられるわけで、それに対してSNSなどで安易にポリコレ棒を振りかざすことを良しとする,ここ5年ほどで広まってきたリベラル勢の社会規範はうまく対応できないのである。それどころか2000年頃から10年程度,リベラル勢力は発達障害や認知症を持つ人もうまく社会に溶け込めるように皆が配慮していこう(≒多少は傷つくことがあっても我慢しよう)という運動をしてはいなかったか?

アンチリベラルを自称する私たちは,この手のひらを打って返したようなリベラル勢の態度に今一番の疑問を感じている。社会にはどうしても多様な価値観に対してうまく対応できない人が一定割合でいるし,望まぬ思想教育をしたところでそれが簡単に解消するわけでもない.にもかかわらず,彼らの推し進める社会正義は本質的に自分たちの価値観に合わない人を差別しようとする「差別主義」であり,彼らの糾弾しようとする「差別主義者」と根本的に何ら違いはない.すべての人がそれぞれの特徴に配慮されて気持ちよく生きるためには,「差別言動=即排除」という態度ではなく,程度の軽い差別言動や多少の傷つけ合いは,冷静に対処してある程度は水に流すという態度や,謝罪すれば許すという柔軟性も必要だろう.

認知症や発達障害に限らず,オタクや小児性愛者など,見方によっては恵まれないマイノリティとも取れる人々は,昨今のちょっとした言動でポリコレ棒が振り回されるリベラル社会規範では,直接的・間接的にも差別され排除されがちだ.しかも,彼らの嗜好するものが学問として「非倫理的」であるために,マイノリティ性の学問的裏付けがされず,配慮されるべき対象とすら認識されていない.

学問はマイノリティ性を規定する一つの手法ではあるが,それが全てではない.ガリレオが当時の「学問」の世界で認められなかったように,学術界も主流や反主流があり,また時代によって考えが変遷していく性質を持つからだ.その時点の解釈方法の一つでしかないにも関わらず,「学問に基づくべきだ」「科学に基づくべきだ」と声高に叫び,学術や科学を絶対的に捉える思想も,また物事を一面しか見ることができない偏った考え方だと思う.(現代科学はまだそれほど真実をクリアに解明してはいない)

極端な正義感で急速に世界を塗り替えようとする試みや,誰かを追い詰めて排除しようとする風潮は,たとえその時の正義や道徳に照らして正当性があっても,決していい結果を生むことはない.欧米は第一次世界大戦後にドイツを追い詰めたことを反省したはずだが,北米では歴史が浅いためかその反省は十分に生かされず,この10年ほどエリート主義と結託したポリコレやキャンセルカルチャーの広がりを容認した結果,トランプ現象や修復不可能な分断という反動を生んでしまった.コロナで「命の相対的価値」が低下してきている昨今,このような分断は容易に大量殺人や戦争といった悲惨な結果を生むだろう.

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私たちアンチリベラリストはどんな基準であれ,特定の人々を糾弾して排除することを良しとする社会は,決して持続しないと考えます.ある言動を差別だと思うのならば,差別である根拠を対話しながら対等に丁寧に説明し,その人の理解を得るべきだし(その際に自らの根拠に薄弱な部分もあるという事にも良心がある人なら気づくはずです),仮に理解が得られなかったとしても排除するのではなく,言動を届きにくくする,住み分けるなどの工夫によって乗り越える努力をすべきです.ましてや踏み絵のごとく「沈黙は容認だ」などと他人に無理やり同意を迫るやり方では反感を生むだけでしょう.

アンチリベラリスト(元リベラル派が多いと思います)は,現リベラル派がその社会正義を披露すること自体は否定しません.しかし,それが実社会で新たな差別を生まないように,彼らの正義は人文学の学術界や反差別活動をするNGOなど一部に留めるべきであって,無理に実社会や政治に広く浸透させるべきではないと考えます.世の中には極右から極左まで多様な考えがあって,容易に人は考えを変えるものではないし,変えることが能力的に難しい人もいる.それもまたマイノリティ性の一つです.そういう価値観のアップデートが難しい人のことも想像し,現実社会に内包してこそ,真のリベラルの目指す道であると私は信じます.

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