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唱歌はどうですか?

ちょっとカタイ話を。

私が小学生だった四十ウン年前。
学校と言う場所は正直あまり嬉しいところでは無かったのですが、それでも幾つか好きだったものがあります。
音楽の授業です。

同級生にSリコーダーが上手いと誉めて貰った事があります。
今でもですが、楽器は大好きです…ただ練習できる場所が無いけれど。
歌うのも好きですが、聞くのも好き。
クラシックも好きですし、演歌も好きですね。

しかし、一番ためになったというか感動したのは「唱歌」です。
私の世代は多分、文部省唱歌というものを学校で習った最後の方の世代でしょう。

唱歌というと、過去にもnoteに「ふるさと」を作詞した「高野辰之」の事を書きました。

彼は国文学者で、本業はそちらだったと思いますが、苦学辛酸の生活を送り、その地位を得ました。
「ふるさと」は、その苦学生活の事を題材としたものと思われます。

今の学校では、唱歌は教わらないようですね。
それは致し方無しとも言えて、唱歌はその目的が「戦意高揚」であり、子供にも教育として教え込もうと言う目算でしょうから、削られるのは当然と言えます。

しかし…唱歌には、昔の日本語が使われていて、古の日本語の美しさは、その曲の素晴らしさとも相まって、まるで上質な日本画のように人の心を揺らしてくれます。

高野辰之作詞の「おぼろ月夜」。

以前に高野の生家近くを訪ねた事がありましたが、その風景があまりにも高野の作った歌詞に相似しているのを目の当たりにして、感動したことがありました。

「おぼろ月夜」で描かれている風景は、近所の寺近くでのものと言われていますが、まさに、と納得させられました。

聞くだけで、歌うだけで、その情景が目に浮かぶ…これこそが日本語の優れたところであり、失うべきではないアイデンティティーでしょう。

言葉は変わり続けていく運命を持っていますが…それはその言葉に愛情を持つがゆえに変わっていくものだと思います。
実際「ヤバい」という言葉もルーツそのものは深く、昔より使われていた言葉が流布されていき、全国的に使われるようになったと聞きました。

しかし「英語の方がシンプルだから」とか、カッコいいからとか、そういった理由の中には愛着と言うものは含まれません。
都合主義で変えてしまうことは、何においてもそうですが、極力避けるべきです。
変化は良いですが、変更には気をつけねばいけません。
どこかの首長のように、やたら横文字を使うことは、文明の破壊行為に等しいと私は思います。

今の子供たちの心が、もし荒れているとするなら…私は唱歌を皆で歌わせればいいと思います。
好戦的な歌詞など、ほんのわずかな例ですし、そも、当時の作詞者が意気揚々と戦地に子供を送ることに加担したとは、私には信じがたいのです。
私はずっと、唱歌の味方です。

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