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さだまさしの歌に見る平和(その一)

所謂「反戦歌」を歌った歌手は何人もいる。
古今東西、反戦の歌が無い国など無いと思う。
ロシアにも、ウクライナにも、北朝鮮にだってきっと反戦の歌はある。
我が国日本にも、数多くの反戦歌がある。
しかしその殆どが、人口に膾炙して後、再び振り返られなくなるのは何故だろうか。

私なりに考察してみた。
それはその多くの歌たちが「戦争の正体を見ていないから」だと思う。
戦争とは如何なるものかを見ていない。
戦争を止めよう、戦争は悪いものだから、という一点に言及するあまり、実際の戦争の被害者たちへの眼差しが薄くなってしまう状況に陥ってしまっているのではないか。
故に、異なる方向からの視点が現れたときに、容易に向きを変えてしまうのだと。

「さだまさし」の歌は違う。
さだは、所謂反戦歌としての曲を作ってはいないと思う。
ただし、そのメッセージは、聞くほどに深く、広大なものだと理解る。
さだは「何故戦争はいけないことなのか」ということを、日常の様々な出来事や営みの中に溶かし込み、歌っている。

「防人の詩」の中に「いくさ」という文字は全く入ってはいない。
万葉集の「防人の歌」の部の
「鯨魚取り 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ」
…という歌からインスパイアされたのが、防人の詩なのだ。
一見、反戦歌とは全く関係がないように思えるが、鯨魚…クジラ獲りの漁師たちが海に向かい嘆く声が聞こえてくるような切実感をもった歌だ。
海も山も死ぬのだ、と嘆く漁師たちの絶望は、戦場で何のためにかも解らぬまま、銃弾に倒れていく兵士の嘆きと相似している。

防人の詩は、映画「二百三高地」のメインテーマであるが、大激戦地で飛ぶように失われていく生命達は、潮涸れて消えていく海の住人達の様のように、拠所ない悲しみに満ちている。
さだは、悲惨さや悲しみや憤りを、声高に叫びあげたりはしない。
ただただ、日常の中に流れているだろう、小さくも切実な悲哀を使って、まるで指揮者がオーケストラを導いて交響曲を演奏するごとく、戦争の真実を奏でようとするのである。



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