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愛する画架

 この部分がなんとも好きなのだ。
 これは、イーゼルの頭だ。
 私が、高校1年の時から使っているもの。
 
 ホルベインのマークがもう薄くなってしまっていて、金属がいい具合に古びており、ざらっとした手触りになっている。
 私は、こういう朽ち方を美しいと感じるタイプで、新しくてピカピカの金属が、日々使われることでいい味になるのを楽しみにしてしまう。

 特に、この頭のネジ。
 この凹んだネジが、可愛くて大好きだ。

 美術予備校にも大学にも、がっしりとした大きなイーゼルがあるし、こちらは、ちょっと近くの美術研究所で描きたい時に使っていた。
 自作のクッション性のある縦長の袋に詰めて、みなさんのイーゼル置き場に私用として置きっぱなしにしていた。
 ぐるっと止めるベルトが、千切れてしまい半分なくなった。
 
 美術展に出すような大きなサイズを描く方は、新聞紙に直にキャンバスを置いて描いていたけれど、私はこの子の前にいるのが好きだった。

 畳んだ姿も、立ち上がった姿も綺麗なのだ。
 これ以上ないくらいシンプルで、無駄がない。

 細くて、美しい脚。
 女性的なイメージ。
 この前に、木の椅子を縦にしたり横にしたりして座って、描いていた。
 テープを貼り付けた場所に、ローマ字表記で私の旧姓の名前が書いてある。
 

 しばらくは、クローゼットの隅っこに立て掛けられていた。
 目に入るたびに、なんだか悪いなあ・・・と思いながら、忙しさでゆっくり絵を描く時間がなかった。
 アクリルではなくて、油絵具でゆっくりと描ける時間は来るのかな。
 乾く時間を計算に入れて、下地を塗ることから。
 紙パレットではなく、木のパレットの上でナイフで混ぜる感触がいいのになぁ、と思いながら。
 

 そのまま固まってしまったのは、何十年前の絵の具でしょうか・・・。
 しばらくは薄っすらと油絵具の匂いがして、嗅ぐと気持ちが和らいで落ち着いていたが、さすがに消えてしまった。
 アトリエのあの匂い。
 いろいろな種類のオイルや、筆洗油。
 絵の具があちこちついた白衣を着ていた。
 
 自分のためだけに生きていて、自由だった。

 もちろん、悩み事もあったけれど、前を向いてさえいれば、どこかに辿り着けるような光があったように思う。
 若いってそういうことなのかも知れないと振り返りながらも、今、若い人の話を聞いていると、昔よりも色々なしがらみが多いような気がする。
 家族関係が極端に濃かったり、薄かったり。
 誰に対しても、本音を話すことには抵抗があったり。
 大人と同様の、弾けにくい閉塞感も感じる。
 世界の情勢からしても・・・。

 感じた感情を混ぜて濁らせてしまう前に、単色で重ねていくように生きて行けたらいいな、と思う。

 もう少ししたら、また、描くかも知れない。
 美しい脚と可愛らしい頭のネジを前に。
 美しい脚といえば、マレーネ・ディーリッヒを思う。

 美しい脚を愛でるような、マレーネのポスターを飾っていたっけ。

 


書くこと、描くことを続けていきたいと思います。