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弐 ― 風、凪ぎの朝に問う・2

 有為転変。それが世の中の常。

(移り変わる事すら夢のまた夢……)

 灯馬は自分の両手と向かい合った。どれほど永い間、この手を自分の手として認識しているのだろう。
 
 変わらない
 
 白い布からはみ出した指先。伸びない爪。刻まれない皺。この体は老いに嫌われ、人目に映らず、【生きている事】を実証できない。身が果てるという、ごく自然な、生物に等しく与えられた権利が、自分には夢にすらなりそうにない。大切な人がひとり、またひとりと世を去る。それを傍観し、寂しがるも空しく、ただその繰り返し。

(遠い…………皆、随分遠くに行きましたね)

 この感情は、恋に似ている。誰かを恋しく思う。愛おしく思う。その人に会いたい。そばに行きたい。叶わぬのなら、いっそこんな感情を持たずに生まれたかった。

(死に恋焦がれるなんて、不健全この上ない……人に説教出来る立場ではありませんね)

 まだ布団に包まり、夢の中の住人であろう少年。灯馬は、その人の顔を脳内に描いた。不満と苛立ちを隠し、無を装った横顔。彼は最近、己との対話に夢中だ。時に深部に迷い込んでしまう。それを度々窘めているのだが、そんな自分もまた、己の在りようがわからなくなる。呆れを込めて息をもらし、灯馬は再び宙に舞った。

 同じ杉の、同じ枝に腰を下ろし、景色を瞳に染み渡らせる。
 
 静寂を賑わすのは風の囁き
 白み行く青に舞う黒は孤独を偽るカラス
 飛び越す造作物は静
 降り立つ人工物も静
 美しい
 ただ美しい
 
 何万の人々が息づく街が、喧騒と縁を切れないこの街が、その息遣いが届かないだけで、こんなにも美しく映る。不思議と目頭が熱くなり、灯馬は視線を振った。その気なく振ったはずの視線が、少年が眠る家の方向に向かう。

(ここからの景色……どう感じるんでしょうね)

 口角を上に動かした感情は、確実に自分のもの。誰かを大切に思う。愛おしいと思う。一種の愛情。やはり、この感情には抗えない。灯馬は、笑みに微かな音を乗せた。その残響が消えるとほぼ同時。灯馬の脳内に蘇った言葉。
 
『不必要な感情は、ひとつとしてない。この身を顧みれば、あの時捨てるべきだったと思う事も多々ある。だが、それが出来なかったが故に、君にこの子に会わせる事が出来た。俺は、この事実を決して否定したくない』
 
 甦った言葉は、揺らぎを知らない水面のような、理知的な響きに乗っていた。曇り空に呼応する海鳴りにも似ている。そんな響きの持ち主は、少年を残し去った者。少年の父親。

 その人物は【脱厄術師(だつやくじゅつし)】と呼ばれ、地や空間に張られた結界の修復を生業としている。修復だけでなく、新たな結界を施す技も持っている。その結界は時に人身にも用いられ、灯馬のような【偽宿(ぎしゅく)】にとっては、拠り所となる人物。

 【偽宿】。それは人の手によって災いに捧げられ、いつしか災いが【宿ってしまった】人間を指す言葉。

 灯馬の母親は祈祷を生業としていた。白銀色の髪と不可思議な色の瞳を持って生まれた息子は、これまで多くの邪を祓った因果とされた。色素が失われる病だと口にする者はなく、その姿は、ただただ奇異の存在。魂が汚れる間もなく、その命は死へと向かわされた。
 
 人身御供
 生け贄
 人柱
 
 天地の荒ぶりは神々の怒りとされていた頃の話。最も力を持つ捧げ物は人命。灯馬は、他人と見目異なる稀有な存在として災厄のもとに置かれた。実のところは厄介払い。しかし周囲の意図に反し、命を繋いで戻った。
 
 奇跡の子
 災いに許された子
 神に愛された子
 人とは異なるモノ
 
 崇める事と恐れる事。その感情は表裏一体。大人達は、灯馬を度々災厄に捧げた。

 その都度灯馬は生きて戻ったが、気づけば老いは止まり、己の中に他者が存在する事に気づいた。そんな状況を知ってなお、人々は偽りの敬いを灯馬に向けた。そして惰性による同情は、その心を傷付けるに不足はなかった。
 
 災いが宿った体
 そんな馬鹿な
 嘘つき
 あの見た目で死を恐れるのか
 そもそも人ではないだろうに
 
 聞こえてきた声は、これまで頬を叩いたどんな突風よりも激しく、腑の中まで凍えさせた雪よりも冷たかった。
 
 守ってきた者達こそが穢れ
 そして自分は
 災厄そのもの
 
 そんな感情が堰を切り、灯馬は災厄を放った。

 吹雪が荒れ狂う事、三日三晩。風が平静を取り戻し、完全なる白が村を塗り潰した朝、その男は現れた。
 
『辛かったな』
 
 初めて会った人間の、三秒にも満たない言葉に、篤実さは確かに織り込まれていた。碧落一洗。ずっと見えていなかった青空が目を突いて、目頭が疼いた。
 
(あの人だけですね……はっきりと私の涙を見たのは)

 あの時涙を押し流したのは、歓喜だったのか、悔恨だったのか。未だにわからない。

 灯馬は災厄とともにあり続ける事を選択し、男は灯馬に幾十の結界を施した。灯馬は生来の宿災ではない。故に、災厄を身に留める為の結界を持っていない。

 災厄が放たれないよう、その身に結界を施すのは、脱厄術師のみが成せる技。特殊な文字が刻まれた死装束と、腕脚に巻きついた白い布。
 
 不気味
 
 しかしそれらは、白銀色の髪と妙に馴染んだ。

 脱厄術師は眼球にも結界を施した。人々に恐怖を抱かせていた青みがかった薄茶色の瞳は、深海を思わせる藍に変わった。皆と同じではないが、違和感は軽くなった。しかしその姿を、灯馬本人は確認出来ない。丹念に磨かれた鏡も、穏やかに横たわる水面も、決して灯馬を映さなくなっていた。
 
『君は人々の恐れを請け負って生きた。もう姿形で存在を認識されるべきではない。目に映らなくとも、風は肌をなぞり、光は景色を彩る……君も同じ。人よりも尊い存在だと、俺は思っている』
 
 その言葉だけで充分。灯馬が背筋を伸ばして立ち上がるには、充分だった。

 他人の目に映らないという事実は、然程感情を左右しなかった。むしろ気が軽くなった。ずっと逃れたかったのかもしれない。好奇、疑心、嘲笑。人間の目というのは本当に雄弁だ。自分自身もまた同じく、知らず知らずのうちに本心を読み取られていたに違いない。

(私が思っている以上に、憎しみは伝わっていたのかもしれませんね)
しかし、もういいのだ。今、自分を目にする事が出来る人間は、片手の指で数えられるだけ。その者達の前では己の全てを曝け出して、何ら問題ない。
(特に知って欲しい感情も、今のところ……)

 巡らせる思いの隙間に、懐かしい気配が流れ込んだ。瞬時に反応、灯馬は己との対話を打ち切ると同時に枝を離れ、二秒とかからず大地に降り立つ。そのまま膝を折り、頭を垂れた。

「お帰りなさいませ。お帰りであれば私が貴方のもとへ赴くべきところ、失礼いたしました」
「相変わらず大袈裟だな」

 落ち着き払った声に目元を緩めながら、灯馬は顔を上げた。

 視線の先。佇んでいるのは、黒の作務衣を纏った男。黒く艶やかな前髪を風が持ち上げ、涼しげな目元が露わになる。


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