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来し方を語りたく ③

*ただの記録なので、あまり感情移入せず
突き放してお読みください。

*****

子供の頃、ピアノを習っていた。

私が最初に『音楽』というものに出会ったのは
通っていた日曜学校(教会)で歌う
〈こども讃美歌〉で、

歌詞も旋律も、とてもきれいな曲ばかりで
すぐに音楽が大好きになったけど、
ピアノの練習は
あまり好きになれなかった。

理由は二つある。

一つは、ピアノの先生が怖かったこと。

私が教わっていた先生は
綺麗な老婦人のかたで、
白く輝くウェーブの白髪はくはつに、
いつも柔らかそうな生地のブラウスの上に
カーディガンを羽織り、
髪と同じように白い光沢を放つ、真珠のネックレスをされていた。

特にレッスンが厳しいということはなかったのだけど
私が怖かったのは
ピアノを弾いている最中に、手首が下がってしまうと
和裁などで使われる、竹製の長い物差しで
手の甲をピシッと叩かれることだった。

もちろん、あざが出来たり、怪我をするほど強く打たれたわけじゃない。
でも一生懸命弾いてる時にいきなり来るので
毎回すごくびっくりしてしまうし、
痛くも感じたし、
何より、とても怖かった。

ピアノは4~5歳くらいから習い始めたと思うのだけど
今にして思えば
子供の手は小さいから、
鍵盤の上で運指する時、指が届きづらくて
曲によっては、手首が下がってしまう時もあったと思う。

でもその頃の私は
先生のご自宅でのレッスンで
何回もそうやって手を叩かれて、

何度同じことを注意されても
完全に治すことが出来ずにいた自分を
情けなく、恥ずかしく感じていた。

二つめは、家で練習するとき。

ピアノの練習をさせようとする母が
毎回必ずではなかったにせよ、
火のついたお線香を手にして
私の後ろに立って、ずっと練習を見ているので
それが怖かった。

真面目に練習しないと
お前の手に〈根性焼き〉(←って言うんだよね?)
をするぞ、という
言わば脅し。

先生と母、それぞれから受ける
それらの緊張が、なんとも憂鬱で
おそらくは、もっと好きになれたと思われるピアノの練習が
当時の私にとっては苦痛でしかなく、

小学校の高学年になった時に
両親が郊外に家を買い
家族で引っ越しをすることになって

親の住宅ローン開始と引き換えに(笑)
私たち子供きょうだい全員の習い事が〈自然終了〉となった時には
正直なところ、解放された気分だった。


戦後、南洋から引き揚げてきた石垣島出身の祖父母の家族は
アメリカになってしまっていた故郷へは戻らず
そのまま東京に居を定めた。

私も少しのあいだ住むことの出来たその家は
小さな庭付きの一軒家で、
周りにも似たような家が建っていたけど

都心だったせいもあるのか
おそらく高度成長期に伴う東京都の計画により
その区画一帯の家は取り払われ、
そこに住んでいた全世帯は
近くに建てられた、大きな都営住宅に移った。

その都営住宅は
一軒一軒の間取りは小さなアパートだったので、
もし私が一人っ子だったら
そのまま祖母と、親子三人で
住み続けたのかもしれないけど

私の下にもきょうだいたちが複数生まれてきたので
この子達が大きくなったら、かなり手狭になるね…
という将来を見越して
うちの両親は、そのころ都下の様々な場所にできていた、
マンションへの引っ越しを決めた。


引っ越し先の真新しい、
モダンなマンションのキッチンには、
外国のドラマに出て来そうな
大きな備え付けのオーブンがついていて

アメリカ映画で見るみたいな
すてきなお料理が作れるんじゃないかと、
わくわくした。

その家へ引っ越した日の午後、
近所の大型スーパーへ、家族みんなで買い物に出掛けた。

私はもう気持ちが浮き立っていて、
ママとお揃いの、できれば可愛いフリルのついたエプロンをつけて
あのオーブンで、生クリームやフルーツを載せたケーキを作ってみたい♡
と夢見て、
丸いケーキ型や泡立て器などを売り場で探し、見つけると
「ママ、これ」
と少し照れながら、母に差し出した。

母は見るなり呆れ顔で
「なにそれ? そんなの要らないわよ。 
ケーキなんて、あんた作れないでしょ?
私はやらないわよ、作りたいなら一人で作りなさい」
そう言って、横を向いた。

私は大人しく
元にあった場所に、それらを返しに行った。


そのマンションでの生活にも慣れ
しばらく経ったころ

その日、休日の午前中、
父と弟たちはみんな外へ出かけていて
家には、母と私だけがいた。

ベランダに近い床に座り込み 
私は本を読んでいて

母はダイニングテーブルに新聞を広げて
読んでいた。

良いお天気で、鳥のさえずりが聞こえていた。

ふと見ると 
ぷっくりとした可愛いすずめが 
うちのベランダに降りてきていた。

ちょんちょんちょん と 
小さなステップを踏むように、
ぴょこぴょこ飛び跳ねて
くちばしで床のあちこちを、ついばんでいた。

かわいい♡
そう思って 
母にもこの可愛い雀を見せてあげようと思って

「ねえ」 
と、雀を驚かさないように、控えめに 

でも早くしないと逃げちゃうから 
声に少しだけ、ちからを込めて呼びかけた。

母からは、うんともすんとも 
何の返事も
何の「音」も、返って来ない。

「ねえ、ママ」
私は雀を見つめ続けながら、もう一度呼びかけた。

ママに見せるまで、この雀を逃がしたくなくて
もし私が見つめ続け、目を離しさえしなければ 
この子は逃げて行かない気がして

ママ、はやく。逃げちゃうよ?
そう思いながら 
でも少し焦りながら、呼びかけた。

「んー?」でも 
「なあに?」でも、
なんでも良かったんだ。

母が、私が呼びかけたことへ
〈なんらかの反応〉を、
返してくれさえしたら。

人に、なにか言葉を投げかけたとき
それが相手に届いて 
向こうからも何か反応が返ってくる
その時間的な「間」というものには
たいてい、リミットがある。
数秒~十数秒くらいの。

そのリミットを過ぎても
相手から何も返って来ないと、 
納まるべきところに納まるべきものが 収まっていない 
という〈気持ち悪さ〉や、
自然の調和を乱されるような
〈違和感〉〈不快感〉が残る。

投げたボールが
目的の距離や、力の加減に従い
ゆるやかな放物線を描いて
想定される落下地点に落ちたり、
受け取る相手の手に届くであろう時間を過ぎても
どこにも到達せず
どこかへ消えてしまったような…

ボールなら、一緒に不思議がることもできるだろう。
でもそれが、相手を定めて投げかけた〈言葉〉の場合、

〈無視された〉という、
たったひとり、その空間に取り残されたような
孤独な悲しみが襲ってくる。

母は沈黙を続けた。

「ねえってば!」
三度目に呼び掛けたとき、私の声は苛立いらだっていた。

どうして返事してくれないの?

実際に声に出しては言わなかったけど 
心ではそう問いかけていた。

母はやっと返事をくれた。
「なにようるさいわね!さっさと言いなさい!」

私は一瞬、突然殴られたみたいなショックで固まる。 

もう可愛い雀はどうでもよかった。
母の強い声に驚いて、飛び去ってしまったかもしれない。
でもそんなことすら、もうどうでもいい。

私は無言で素早く立ち上がり、
本をつかんで、ドスドスと
わざと足音を立てて部屋へ行き、ドアを閉じた。
バタン!と大きな音を立てたかったのに
そんな音がしないドアであることが、恨めしかった。

薄暗い部屋のなかで、いっしょうけんめい呼吸を整えた。

泣くもんか。
ぜったい、泣くもんか。
あんなやつに 私は泣かされない。

でも、すぐに限界は来る。
はっと息を吐き出すと同時に、涙もあふれ出る。
せめて声だけは、音だけは漏らすまいと
口をぎゅっと結び
必死に声を押さえ込み、
自分のこんな状態を早く終わらせようと
私は息を整えることに集中した。

夕方になり、父たちが帰ってくる。
夕食の支度を手伝いなさいと 
もうすぐ私に言ってくるはずだ。

その時が、唯一無二のチャンスだった。
私がどんな気分でいるかを彼らに知ってもらえる
唯一無二のチャンス…

ノックも無しに、急にバタンとドアが開けられ、
「何やってんだ、お母さんを手伝え!」 
と父が顔をのぞかす。

「やだ!」
ふだん小声でしか話さなくて 
小さいころから
「もっと大きな声でお話ししなさい」
と言われがちな私が、大きな声で反抗した。

なんでだ?
って聞いて欲しかったから。
どうして嫌なんだ? って。

理由があるの。訳があるんだよ。
昼間、お母さんにこんなことを言われたの。
かわいい小鳥をみて、いっしょに「かわいいね」って、
そう二人で言って、
笑顔を交わし合いたかっただけなのに。


でも誰も 私の気持ちなんかに関心を持たない。


「おまえはどこまで我儘なんだ、
ほんとに出来損ないだな!」
父はそれだけを言うと
キッチンの母のところへ行き
「なんだあいつは!」と文句を言っている。
「ごはん要らないんでしょ」 
母は落ち着いて そう答えている。

もちろん皆と一緒にご飯なんて、
食べたい気持ちにはなれなかった。
お腹も空かなかった。

それから数時間後
家族全員がお風呂に入り終わると
私はこっそりと部屋を出て、お風呂場へ入る。

家族たちがTV番組を夢中で観ていることに安心して
シャワーのノブをひねる。

家では顔にシャワーを当てて、よく泣いていた。
いちばん自由に泣けるのは
顔にシャワーを当てながら泣く時だけだったから。
でも時には
「水道代を考えろ!」という怒鳴り声が、
ドンドンドン!と扉を叩く音と共に
ドアの外から聞こえてきていたけど。


私はべつに
ただひたすらにいたいけな、
可哀想な子供なんかじゃなかった。

こんな事があったあとに
逆に 親が用事で私に声をかけてきたりすると
私は親に、自分と同じ気持ちを味あわせたくて
わざと返事をしなかったりした。

復讐といった、恨みの気持ちからじゃなかった。
それよりもずっと
自分の想いを〈解ってもらいたい〉
という気持ちの方が強かった。

親にはいつもずっと、 
ずっと…
〈わかって〉もらいたかった。

「聞こえてるのか!返事をしろ!」
素直に言うことを聞かない私にごうを煮やし、
声にも、態度にも、強い怒気どきを露わにして
私を殴るために
親がこちらへ近づいて来る。

そんなとき私は
どこかへ逃げたりも、
急いで謝ったりもしなかった。

親の怒りなんてもうとっくに慣れてた。
やがれ」
そう思いながらそこにいた。

予想にたがわず殴られると
「これで満足か?」
という気持ちを込め、無言で親をにらんだ。

「満足したら、これ以上私にかまうな」
精一杯の反抗の気持ちを静かに燃やし
一言も声は発さず
目だけでいつもそう言った。


本当は 一度はもう 
こんな子供時代のことは忘れていた。

何かがきっかけで
急に記憶の扉が開いて、
表に出てきてしまった思い出。


小学生の頃から、どうして私は 
親にこんな態度をとるようになったのか…

今の今まで、本人に自覚はなかったんだけど
やっぱりこれって
5歳のときから通っていた日曜学校の影響じゃないのかなと思う。

だって当時の私は
いろんな聖書の言葉が、ちゃんと頭に入っていたもの。

『もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、
ほかの頬をも向けてやりなさい』

『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』
(マタイによる福音書 第5章38節-48節)

心では反抗していたけど、
基本姿勢としてはこれを実践してたんじゃないだろうか…?
無意識に。


私は自分の親を嫌っていた。
そばにいると緊張したし、
なるべく彼らの目につかないよう
家では一人になれる場所を、いつも探してた。
家に誰も居ないとすごく嬉しくて、ほっと安らげた。

でも彼らに対して
憎しみ、恨み、といった感情は
私の中には湧いて来なかった。
一時的な怒り… 腹立たしさと、
より深さを増していく、強い悲しみだけ。

それは別に
私が心の優しい、良い人間だという訳ではなく、
〈個性〉〈個体差〉に属する特徴なんだと思う。
たまたま備わっている感情の神経回路が
そういう配線になっている、というか。

人に対して、嫌な気持ちになる事はあるけど
怒りの沸点は妙に高く、
怒ってもあまり持続しないし、
怒りに感情を支配されることもない。
でもその代わり
ものすごく強く、深く、悲しみを感じる…

親を嫌いと感じていても
家を出ることは、考えたことはない。
そこまでは追い詰められていなかった。

子供一人で家を出て、どうやって生きていくのかもわからなかったし。

現実的でない考えは、合理性がなくて好きじゃない。
生き残ることを考えるなら
感情よりも、理性を優先させて、
落ち着いて総合的に判断しないと。

特に誰かから教わったわけでもなく
いつのまにか自然に
私は人生に、そういう姿勢で臨んでいたらしかった。



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その点、どうぞ予めご了承ください。

この内容の文章を綴るだけで、精神的に精一杯で、
一つ一つのコメントに、きちんとご対応できる自信がないからです。

でもこの記事をきっかけとして
みなさんが感じた事、
思い出した事、
同じような経験、
今の感情や、お考えなどが
心の奥から出て来たら

もし良かったらどうぞご自由に、
ご遠慮なく書いて行ってください。

みなさんがそれを書いて下さって、
それを読む人がいて、

経験や想いが「自分だけじゃなかったんだ」
と思えたり

知らずにいた、相手の考えや想いに気づいて
「そうだったのか…」と思えることは

人知れず苦しんでいる〈誰か〉にとって、
救いや、助けになると思いますから…


書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡