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書籍『わたしの名は赤』〔新訳版〕上・下

オルハン・パムク 宮下 遼(訳) 2012 ハヤカワepi文庫

やっと読み終わった!
この達成感は記録しておきたい。

上巻を読んだのは、2022年の抗がん剤治療のために入院したときのことだ。

コーヒーが飲みたくなることしか感想に書いていなかったような気がするが、ようやくその下巻を読み終えることができた。
またも、抗がん剤治療のための病室において。

この本の舞台となるのは、16世紀末のイスタンブール。
偶像崇拝を禁ずるイスラム教圏のオスマン帝国において、挿絵を描く細密画師たちが主人公となっている。
細密画師たちは人物像も描く。その画風は、ペルシャに、そして、中国へと憧れと共に起源を持つ。
同時に、ヴェネツィアを筆頭に、西側諸国からの全く異なる絵画文化ももたらされつつある時。
1つの伝統や様式を築きあげてきた文化が廃れゆく、その興亡を、圧倒的な知識量に裏打ちしながら描き出す。

章ごとに語り手が変わる藪の中方式の書き方で、メインの物語として描かれるのは、殺人事件である。
しかし、その事件そのものよりも、この下巻は、目で見えるものを描こうとする西洋絵画と、神の見ているものを描こうとする細密画師との哲学の対立が素晴らしかった。
様式や形式を重視することと、個人の画風を追求することの違い。そして、個性とは、完璧ならざる瑕瑾を覆い隠すためのサインではないのか、という問いかけ。
世界の中央に在るのは、神なのか。それとも、人間なのか。
彼らの問いに対する答えは私は持たないが、これが文化が違うということだと、何度も思いながら読んだ。

各章のタイトルは「わたしは○○」という形式を踏んでいるが、その中に「赤」という名前は出てこない。
下巻p.65にヒントは出てくる。

ふいに「その御方」のおそばにいることが感じられて、畏れと歓喜が湧きあがった。何者も比肩しえない赤色のその存在を知覚したわたしは経験な思いに打たれた。

p.65

神は東であり、西である。
まったき美である。
その美も、真実も、絵は記録することができない。
同時に、最後の最後に、物語でさえ嘘をつくことを作家は書き足している。きっと、にやりとしながら。
この下巻の後半は、なにが幸せであったか、登場人物が口々に語る。
それらは失われた日々の輝き。
取り戻すことはないが、かつて確かにあった青春というもの。
そういう青春の物語として、私はこの本を読み終えた。

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