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MIMMIのサーガあるいは年代記 ―70―

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         第 五 章
  
    ー 紫水晶の朝(3) ー

「お嬢さま! ご無事でしたか。あとはこの天野にまかせてください」チグハグな装いをした天野が、小走りに寄ってきます。

「Fuuuuck! 来るな、裏切り者! 何をたくらんでる。奴らに売り渡すつもりだな」と、桃子が唸るような低い声で応じます。と同時に、前後を挟まれたので左右の逃げ道を素早く探ります。しかし、両方とも閉鎖した工場跡で、高い塀と閉じた門扉で覆われていて、逃げ道は塞がれていました。
 彼女は天野とその背後の三人の男を凝視しながら、自分のうしろに立つ男の気配を足音で探り、ジリジリと左へ退きました。
「なにをおっしゃるんですか、桃子お嬢さま。どうしたんですか? 落ち着いてください。本物の天野ですよ。心配いりません」
「……」

 彼女が身を翻して後ろを向きます。
 背後の大男は棒立ちのまま元の位置にいました。筋肉の鎧をまといながらも俊敏性をも兼ね備えているように映ります。彼女の得意技コンバット・システマは、いわば柔術と合気道に似た円運動をして敵を制圧する徒手格闘術ですから、背後の男を一撃で倒すことはできないでしょう。仮に制圧してもあとの四人に絡みつかれるでしょう。
 一瞬にこう見取った彼女は、大型スパナを男にむけて思いっきり投げつけます。そうして、スパナの行き先を確かめることなく、右側の工場のコンクリート塀に思いきり跳躍します。飛び上がった勢いで塀を二歩ばかり上がると、体勢を変じます。
 そうです。久々の三角飛びです。スパナを投げつけたのは、男に命中させようとしたのではなく、あわよくば体勢を崩すことができたら望外といった程度のフェイントにすぎません。

 彼女は力の限りに塀を蹴ると、膝で男の頭部を狙いました。
 案の定、男はスパナを難なく避けましたが、十六歳少女の三角飛びによる膝蹴りは予想外で、動作が少し遅れます。サイドステップして身を躱すことも、両手で頭を十字ブロックすることもできず、ただ左腕をあげて防ぐのが精一杯です。
 三角飛び膝蹴りが男の側頭部にでも命中すれば、昏倒させることも可能だったでしょうが、桃子もとっさのことで目測を誤ったのと、塀を蹴る勢いが少し弱かったせいで、男の腕をかすっただけで終わってしまいました。人間は空中では軌道変更をできませんもの。

 派手に見栄えがする三角飛びは、相手の意表を突き、一発逆転を狙う大技ですから、いったん失敗すれば、悲惨な自滅におちいります。桃子も、三角飛び膝蹴りが完全に的を逸れた場合よりも悪く、中途半端にかすったためにバランスを崩して着地に失敗し、右足首を軽く挫き、左肘が擦りむけてしまいました。

 男が、桃子の動きを封じるために彼女の右足を踏もうとします。反射的に彼女は、男の軸足の甲に踵を落とします。この技でも彼女がたびたび窮地を脱したことがありましたが、今回は違いました。男が安全靴を履いていて、爪先から甲にかけて強化プラスチックで防護されていて効果がまったくありませんでした。
 彼女は下肢のもう一つの急所、向こう脛を蹴り上げましたが、ここは男が武道かなにかで鍛えていたためか、少し脚を持ち上げましたが、効果はほとんどありません。彼女は何も考えることなく、もう片方の膝横を力任せに蹴り上げます。これは効果があり、男は耐えきれずバランスを崩して片膝をつきます。

 この流れから、これまでの桃子ならもう一つの必殺技シャイニング・ウィザードで、敵手のこめかみに一撃を加えるところですが、できませんでした。彼女の体勢が崩れていて、また男と正対していない位置関係にあったためです。
 しかたなく、桃子は男の股間を蹴り上げました。
 ここは男性固有の急所ですね。ですが、男の鍛えに鍛えた厚い太ももの筋肉に遮られて、不十分な打撃におわりました。それでも男は尻餅をつき、二度目の金的への蹴りにそなえて片手で防御しましたが、激痛に絶叫することも唸ることもしません。

 桃子は、なんとか膝をつかせたこの男を完全に無力化するために、喉元か顔面にとどめの一撃を喰らわしかったのですが、後ろに迫る複数の跫音あしおとに、とどめを諦めて全力で疾走しました。背後からの銃撃にそなえてジグザグに走る上に、軽く捻挫しているので、全力をだしきれません。ようやく角をまがりました。

 ここまでの一連の流れを長々と記していますが、実時間はほんの数秒、最大でも十秒程度に過ぎません。

 一番恐れていた銃撃はなかったものの、彼女が走る速度ではまもなく追いつかれるのは間違いのないことです。隠れる場所もありません。工業団地各企業の交代出勤時刻の峠をすぎていたので人通りは果てていて、トラックなどもまばらに行き交っていますが、忙しくて気がつかないのか、炎天下で必死に疾走する彼女を、炎暑に頭をやられた女子高生くらいにしか見ていなかったようです。

 ……
 追っ手を振り切れたと思った桃子は、一時の隠れ場所として、ある小さな会社の敷地内に潜みました。閉ざされた門もなく守衛もいない、低い生垣で囲まれた会社で、なにかIT会社のようでした。その敷地の一隅の木陰で、身を丸くして五感を張り詰めて様子を探っています。烈日が中天にかかろうする時刻になりましたが、彼女は何一つ解決方法がうかびません。しかし、昨夜のように源さんが支援してくれることもなく、情報もまったく不明なままですから。

 相変わらず空にはヘリコプターが何機も行き交い、サイレン音が遠くで響いていて、近くに設置されている空調機の室外機の騒音と頭上の蝉噪せんそうをしのいでいるほどでした。まもなく昼休みの時刻になり従業員がこの敷地内にも出てくることでしょう。ここも長くとどまれません。
 ……彼女は決心しました。決心というより、これ以外にできることがないのです。お婆さまたちが潜んでいる隠れ家へ戻り様子を探ること、その後は出たとこ勝負の行き当たりばったり……。

 食品加工工場へ戻ります。天野が引き連れていたアジア系の男たちも、マイクロバスも見当たりませんでした。
 彼女は、工場の裏門から敷地内をうかがうと静まりかえっています。門に鍵はかかっていません。桃子は用心深く、足を踏み入れます。手入れの行き届いた小体こていな芝生の真ん中に大きなくすのきがそびえ立ち、その木陰は芝生を覆い尽くす広さです。濃い木陰に何かを見つけますが、夏の太陽の輝きが強烈すぎて、暗い影の中その正体を見極めるには至りません。用心深く桃子は、芝生の外縁を回ります。

「桃子。遅かったわね。大丈夫よ。心配しなくてもいいから」まちがいなく、お婆さんの声です。
「桃子の早とちりよ。派手に暴れたそうね」お婆さんは、力のない笑いをあげました。

 楠の大樹の根元にデッキチェアーを置き、黒色のブラウスに、同じく黒の麦藁帽子で顔の半ばを隠しているお婆さんがいます。その横には、ナナミンが同じような服装で力なく椅子に腰掛けています。
「お嬢さま、喉がかわいたでしょう」と言いながら、ナナミンが足下のクーラーボックスから水のペットボトルを取り上げました。
「どういうことなの?」桃子は、まだ警戒を解きません。

「桃子の勘違いよ。天野は裏切ったりしていません。助けに駆けつけてくれたのです。東京からあらゆる手段をつかってね。エリカやゴンザレスたちは、もう病院へ運んで、残っているのはわたしたちだけ」
「でも、お婆さま。あの男たちは元軍人、それも特殊部隊出身に間違いない。納得がいかない」
 桃子がこう言い終えると、大樹の向こう側から、桃子の三角飛び膝蹴りと金的蹴りをかろうじて躱した大男が姿を現しました。

「彼も桃子には手を焼いたと言ってたわ。雇用主側で重要な護衛対象の少女と思っていても、つい本気になってしまった、って言ってる。天野が雇ったボディガードよ。海外民間軍事会社の日本支店の従業員なの。もう気を緩めてもいいのよ。天野が来てくれたから。なんとかなるわ」
 ナナミンが後を受けて説明するには、ここに三人だけ残ったのはもっぱら桃子を迎えるために待っていたのだと。ボディガードの大男とナナミンは、お婆さんの護衛だということでしたが、ナナミン自身が負傷と疲労で力尽きていて、誰かのサポートが必要なありさまでした。
 桃子は安堵から芝生に崩れ落ちて、よく冷えた水を頭からかぶり、もう一本のペットボトルを飲み尽くしていまいました。

「お爺さまは?」
「大丈夫に決まってるでしょ。もっとも、死んだことになってるけど。それはわたしも桃子も、ナナミンも死亡判定されている。みんなの遺体画像がネットの海に溢れていて、だれも疑ってはいないみたい。政府は、肯定も否定もしていない状態のまま。でも、その画像を見てはいけませんよ。そりゃあ惨いものだから」
「ベンジャミンの偽画像が出回ってるのね。変なとこでも役立ったってこと?」
「わたしたちが姿を現さないなら、当分は詮索されないでしょうね」
「お爺さまはね、猛烈に怒ってるらしくて、とっても忙しいみたい。桃子を危険にさらして蛸薬師小路家を滅ぼそうとした連中は絶対に許せない、と密かに動き回っているのよ。そのうち連絡できるようなるでしょう」

 お婆さんは振り返って大男に、門前に車を寄せるよう命じました。
「ここに長くこうしてられないわ。出立よ。桃子は、ナナミンが立ち上がるのを手助けして」
 ナナミンに寄り添って桃子が立ち上がると、車が門前に停まりました。それは、輸血用血液製剤を搬送する緊急車両でした。さらにフロントグラスに、警察庁管区局長発行の管内通行許可書と国防軍大臣官房発行の特別通行許可書が室内から貼り付けてあります。双方に、無条件の通行許可と捜索点検免除が特記されています。
「あれ、本物なの?」
「もちろん本物。天野が、あらゆる既知のコネ、古い貸しの回収、買収、賄賂、取引、脅しと泣き落としを使いまくって手に入れたものよ。まあ通用するでしょう」こう言って、お婆さんは緊急車両に向かいました。
  (つづきます)


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