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きわめて私的な事情

 
 けさ、妻を殺した。
 あっけなく死んだ。
 
 朝のつまらぬ諍いが発端である。思わず逆上して殴り殺してしまった。二人の機嫌が寝起きで悪かったのかもしれない。
 まあ原因はどうでもよい。過ぎたことだ。事故のようなものだと割り切っている。単に妻が「物」に変わっただけだ。あいつとは新婚十六カ月を除いて、同居人の関係になっていた。だから罪悪感も、後悔もない。むしろ清々した。
 問題はこのあとどう処理するかだ。
 もちろん、救急車を急いで呼んでから、警察に出頭するのが一番良いことは分かっている。殺人罪にはならないだろう。たぶん傷害致死罪で、模範囚になれば数年で娑婆に出られるはずだ。だが、刑務所の暑さと寒さには耐えられそうにない。そんなことはまっぴらだ。
 
 キッチンの椅子を引き寄せて、煙草をふかしながら思案した。
 足元にはあいつが、いやあいつだった「物」が、口の端と耳から血をカーペットに垂れ流して横たわっている。こうして眺めると、トドのように大きい。始末に困る大きさだ。やはり死体は隠蔽し、あいつは失踪したことにする。悲嘆にくれる夫の陳腐な演技をするのは気が滅入るが、この際しかたないだろう。死体を捨てるには「おあつらえの物」があるので、利用することにした。
 失踪は、あいつの携帯の通話記録や外出予定を調べて綿密なタイムテーブルを組み立てて、完璧なアリバイをつくることにする。なにしろ今まで何人もの被疑者を取り調べて、些細な矛盾点をほじくりだし、そこから自白に追い込んだのだから、逆のことをするのは造作もない。犯罪のことは刑事、脱税のことは税務査察官が熟知しているのだから。
 
 問題なのは、あいつの死体を処理する「おあつらえの物」の能力次第だ。
 煙草を口にくわえて、浴室に入った。便器の蓋を上げて覗き込むと、ブルーの底に小さな黒点が浮かんでいる。そいつはエンドウ豆くらいの大きさに育ってきていた。一週間前は、ボールペンのペン先くらいの粒だったが、だんだん成長してきている。
 煙草を便器に投げ込むと、水にも濡れず黒点に吸い込まれた。先ほど座っていた椅子を放り込んでみた。便器より大きいが、音もなく呑み込まれた。応接室から予備のソファーを持ち込み、便器の上に置いたが、何もおこらなかった。どうやらけさのところは、椅子の重さが吸い込む限界らしい。この黒点がさらに成長したら、用便には気を付けなければならないだろう。
「やれやれ」と独り言ちて、もう一本煙草に火をつけようとしたが、朝から三本目になることを思い返して、便器に投げ込んだ。吸い過ぎは健康に悪いので、本数制限をしているところだ。

 この黒点は一週間前にあいつが発見した。ペーパー・ロールを手落として、吸い込まれるのを発見した。便器が故障したと告げるので調べてみたが、原因が分からなかった。
 知人から譲り受けた特殊な染料や放射性物質を投げ込んで、浄水場で検出されるか試してみたが、出なかった。配管に物が吸い込まれていないことは分かったが、どこへ通じているのかは知らない。ただ消えるだけだ。
 いろんな物でためしてみると、そのとき吸い込む力はペーパー・ロールの質量が限界だった。あいつは、可愛いブラック・ホールと名付けてさまざまなものを投げ込み、「水道代が助かるわ」と能天気なことを言った。
 本当にブラック・ホールかどうか分からない。信じられないが、現に目の前にあることに変わりはない。

 そう。この黒点にあいつの死体を処理させようと、考えた。
 しかし死体まるごとは無理だと、いまの些細な実験で目安がついた。とにかく、今の俺にとっては重宝な代物だ。
 さっき嘆息したのは、これからの作業の労力と美的観点から嘆いたのだ。あいつをバラバラにする労力と時間を考えると気が滅入る。また美的な作業でもない。
 
 必要なものを揃えるのに半日かかった。
 もちろん顔を覚えられないように郊外の量販店などをこまめに廻って、少しずつ現金で買った。防犯カメラを備え付けた店も避けた。Nシステムがある道路も迂回した。
 金鋸、肉切り包丁、大振りな鑿、鉈、剪定鋏、消臭剤、ビニール手袋や上下揃いのレインコートを買った。輸入物の強力な洗剤と消毒液も手に入れた。これは日本ではあまり知られていないが、血痕のルミノール反応と、DNA判定を無効にする薬剤だ。
 美的でない作業を始める前に裸になり、直接レインコートを被った。フードもきっちりおろした。用意万端とあいつを浴室に運び込もうとしたが、手足がドアと入口に引っ掛かり入らなかった。死後硬直が始まり、手足が曲げられないのだ。キッチンで作業をしようとも考え直してみたが、敷いたばかりのカーペットを汚すのは惜しい。つまらぬ見落としで手順に間違いが生じた。これも美的観点に傷をつける。

 また「やれやれ」と嘆息したくなる。
 家じゅうの温風ファンヒーターを集めて来て、あいつの周りで焚いた。われながらいい着想だと微笑む。これで硬直がなくなる。
 一時間ばかり経ってから、ようやく浴室に運び込めた。本格的な処理をする前に、血抜きをすることにした。そのほうが浴室の拭き掃除が楽になるだろう。
 浴室にあいつを横たえて、庖丁でパジャマを切り割いて裸にした。こうして眺めると、あいつもブクブク太ったものだ。あいつと初めて出会ったときには、モデル体型をしていたのに、顎は二重、腰の窪みはなくなっている。上半身が浴槽の中に逆さになるように、腹を浴槽の縁に持ち上げた。腕の力だけで持ち上げるには、俺としても随分苦労する。あいつは物になっても悩ますのかと、腹立たしくなった。
 あいつの肩を片手で支えながら、頸動脈を庖丁で切り開いた。もちろん生きている時のように勢いよく血は出ない。水を流しながら体を下から上へと揉み、血を絞ったが、なかなか出ない。人間の血液量は体重の何分の一だったか忘れたが、かなりの量になるはずだが……。
 下半身の血抜きはこの格好ではやりづらいのでやめた。
 青い防水シートを床に拡げ、あいつを転がす。
 
 もう一度手順をおさらいしよう。
 俺が取り調べたバラバラ殺人事件は一件だけで、犯人は被害者の妻とその母親だった。発見されたバラバラの死体は、切り口が余りにも鮮やかで手際よく捌かれていたので、最初犯人は熟練の外科医ではないかと推測する同僚がいたほどだった。だから妻を取り調べた時に、詳しく処理過程を訊いた。その女が言うには、手足などは関節部分から切り離すと楽だと言うことだった。一番苦労したのは、関節がない首を切り離すことだと言ったのではなかったか。確か、どうしても切り離せないので、鉈をあてて、その峰を金槌で叩いたと言っていなかったか。

 そう、まず一番手間のかかりそうな頭部から切り離そう。
 首の肉を庖丁で削いでいったが、筋肉を切るのが難しい。ゴム手袋はすぐに血と脂肪にまみれて滑りやすくなったので、しぶしぶ素手で作業をすすめることにした。俺の綺麗な指先や爪の間に、あいつの薄汚れた膏が入り込むと思うとぞっとするが、我慢するしかない だろう。
 血管などの間に頸椎の灰色が見えるところまで、三十分かかっただろうか。
 だが、あとは早かった。鉈を頸椎の間に押し込み、上から体重を思いっきりかけると難なく切り離せた。
 
 髪の毛をつかみあげ便器に放り込むと、あいつの首は、音もなく黒点に吸い込まれた。 血痕一つ残っていない。俺は便器をもう一度のぞき込み、問題が一つ解決できた解放感で嬉しくなってきた。この面倒な作業が半ば終わったような気になったので、iPodのイヤホンを耳に押し込み、ボリューム一杯にバッハをかけて作業を快適にすることにした。
 次に右肩関節を切り離す作業をしたが、やはり筋肉を切るのに難渋する。作業を急いで 金鋸で一気に肉を切ろうとしたが、滑るだけでほとんど役に立たなかった。はやり丹念に肉を削いでいくしかないと諦めた。左肩にかかるころにやっとこの作業に慣れてきて、マタイ受難曲に合わせてハミングしていた。
 
『その御国で神を褒め称えよ。その栄光を賛美せよ。その輝きを賞賛せよ』
 
 合唱部分になると、薄暗い教会の中でステンドグラスを通す光を浴び、神の恩寵を受けて魂が高みに舞い上がっていくようだ。この単純で美的でもない作業が、聖なる献身のように思えてくる。リズムをつけながら脂肪を切り分ける。
 両腕を便器に振りをつけて投げ込んでから脚にかかった。下半身は血抜きをしていないので、両肘まであいつの血に汚れてしまった。あいつを天井から逆さまに吊して、頸動脈を切り開いていればこんなことにはならなかったが、この体重を支えるフックもスペースもなかったので後悔してもしかたないが、俺の完璧主義には侮辱だ。
 股関節を切り離すのは無理だと悟ったので、大腿部を切り離すことにした。庖丁の切っ先が皮膚にうまく入らない。やっと五センチ位の切れ目を入れると、黄色味を帯びた脂肪がはみ出してきて始末に負えない。庖丁の切先は刃毀れし、切れ味も鈍ってきて、刃先に脂肪がまとわりついてしまう。この層を取り除けると、静脈が目についた。
 大腿骨にまでたどり着くと、ついに金鋸の出番になったが、骨の表面で滑って切れ目を入れるのが難しかったが、切り離すのは単純作業だ。音楽に合わせながら、金鋸を挽いた。

 この力仕事のおかげで、レインコートの下は汗まみれになった上に、あいつの血糊と膏が袖や襟元から流れ込んできて不快感が増してくる。こここまで汚れればレインコートも役にたたないと考えて、裸になって作業を進めることにした。iPodも一緒に浴室から放り出した。
 両足を便器の黒点に放り込み終えたので、いよいよ胴体部にかかることにする。黒点が始末できる大きさから推測して、胴体は少なくとも二つに分けることにした。買ってきた肉切庖丁は二本と切れなくなったので、便器に放り込んで始末した。替わりの庖丁を取りにキッチンへ出た際、カーペットの上に血糊がついた足跡を残してしまった。愚かな不注意だった。
 腐った魚と糞尿が溶け合ったような悪臭が充満している。
 この作業を始める前に完璧と考えた計画も、次第に程遠いことになってきている。思索と実行の間の隔たりは常に忌々しいものだが、この作業もそうだった。あいつの脂肪がまた遮る。
「死んでからも、あてつけるような仕打ちをするのか」と口走っていた。
 
 腹膜にやっと至ってから内臓を出して、切り離すまでの作業も手間取った。特に内臓-多分腸に違いない―を切り離すのにはまいった。次から次へと腸が出てきて、浴室の一面に広がってしまう。正直なところ狼狽えた。
 剪定鋏で丹念に切り離して、端を便器の黒点に放り込むと、周りに血と内容物を振りまきながら、盛大に暴れて黒点へ消えていく。
 結局、背骨を切断せず、内臓をすべて取り出すことになってしまった。庖丁や金鋸よりも、剪定鋏が役立った。体重のほとんどの部分だから、大そう時間がかかった。
 なかば諦め気味に空の胴体を便器の上に置くと、黒点は綺麗に吸い込んでくれた。浴室の中は血や膏、腸の肉片、汚物などで汚れきってしまったが、広々となった。
 防水シートや解体につかった道具をすべて黒点に投げ込み、消毒液と輸入物の強力洗剤を撒いたあと、水をかけて丹念に拭いたが、ほとんど汚れは取れなかった。
 
 日付が変わっているのに気づいた。数時間で終える心づもりだったが、十時間余り作業を続けたことになる。かかった手間を考えると、節々が痛んでくる。長い間同じ姿勢で力仕事をしたせいだ。腹も空いていた。一服つけて、ながながと紫煙を吐き出す。ウィスキーとグラスを取り出して、親指三本くらいの量を一気にあおった。
 酔いが体の隅々にまわると、疲れも沈殿してくる。まだ後始末は終わっていないが、仕事を一段落したときの晴れ晴れとした達成感が湧き上がる。
 
『あなたの住まいはなんと素晴らしいことか。主よ、力強き万軍の主よ』
 
 頭の芯ではマタイ受難曲が、神への賛美を美しく奏でている。明日からは希望に満ちた恩寵の日々が続くと、確信した。

「あなた。大丈夫?」と美紗子が揺すぶるのに目が覚めた。
「うなされて随分苦しそうだったわよ。叫ぶから、心配になって」と顔をしかめた。
 美紗子の顔が横にあった。結婚して六年、美紗子も三十過ぎになるが、いたって若々しくスマートなままである。美しさも優しさも変わらないのに気づいた。彼女を殺して解体する悪夢にうなされていたようだった。
「ああ。変な夢を見たようだ」
「すっかり寝汗をかいて、ビシャビシャじゃない。着替えたら」とベッドから離れ、タンスに向かった。
「ああ」と答えたものの、これが現実なのか分からなかった。
「シャワーを浴びてくる」言い残して、階段を下りる。

 午前四時を過ぎていた。夢にうなされて疲れが募っているが、あと二時間ばかりではもう熟睡できないだろうと、苛立つ。
 浴室の前に、黒ずんだ裸足の足跡が乱れて印されていた。照明スイッチのまわりに血塗られた指で押したとわかるわたしの指紋がべたべたと残っている。浴室内の壁と天井にも褐色に変わった血痕や脂肪の痕が飛び散っていた。
 便器を覗き込むと、あの黒点があった。握り拳くらいの大きさになっている。
 じっと二階を見上げて、しばらく考え込んだ。
「美紗子。美紗子。ちょっと下りてきてごらん」と二階に声をかけた。
 なにか返事をして、階段を下りる足音が近づく。
「あら、何よこれ。こんなに汚れて。昨夜はなんにも無かったのに」と不審そうに訊いた。
「いいから、そっちはいいから。ほらこれを見て」と便器のところへ呼び寄せる。
「こんな時間にいったい」と不平を呟きながら、美紗子が便器の中を覗き込んだ。
 俺はあいつのパジャマの襟とズボンの腰をつかんで、黒点へ押し込む。
 あいつは、消え去った。

 静寂が訪れた。家の周りを走る車の騒音も聞こえない。遠くで鳴るサイレンの音もない。あいつの気配もない。
『あと二時間ばかり熟睡できる』
 ささやかな充足に、笑みがこぼれた。
                           ―了―