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麗子のことなど(2)

 その後、わたしは留年せずになんとか卒業した。また、Nが面接を受けたころとは違って就職戦線は厳しくなっていたが、どうにか就職できた。そうして、遠くに海を控えているくせに潮の香はまったく渡ってこず、代わりに夏になると湿って灼けた南風だけを運んでくるR市に配属された。
 四年目の晩夏の午後、わたしは上司に従って中途半端に遠くの得意先に出張した。彼は電車代とタクシー代の経費節減だと云い、三駅分あまりを歩き出した。大学時代はボクシング部員で、当時のウェルター級の体重としなやかさをいまだ維持しているこの上司は、汗をほとんどかかずに俊足で歩きとおし、わたしはついて行くのがやっとのことだった。帰路で彼は、「オレはこのまま帰宅する。課長へ報告をよろしく」と言いすてて、手近な地下鉄駅の地上出入り口に姿を消した。重い鞄と汗まみれのわたしがとり残された。
 
 陽はやや傾きかけていたが、暑気は治まる気配はない。海の湿度と熱を運んでくる南風のせいで、真昼より却って蒸し暑かった。帰社するためには最寄り駅まであと十分以上かかる。ネクタイとシャツの襟元を寛げ、街路樹の木陰を点々と縫って歩くがシャツはすでに濡れ雑巾のように重くなっている。ただひたすら冷気を、水分を渇望し、それ以外のことは頭になかった。コンビニ店内でクールダウンしようと、手近な店舗へ避難した。
 
 寒いほど冷房の効いた店内でようやく一息つくが、帰社時刻を考え合わせるといつまでも涼んでもいられない。汗で濡れそぼった下着の生乾きの不快さを心の中で罵倒しながら、清涼飲料水を一缶買って出口へむかった。すると、店にはいろうとする女性が、扉のガラス越しに見えた。上半身を日傘の濃い影で装い、大きなレンズのサングラスで細い鼻梁を際立たせ、ややうつむき加減にたゆげに歩いてくる。
 彼女に入口を譲ろうとしてずいぶん手前で扉脇にしりぞくと、うんざりする熱風と蝉時雨とともに、その女性がはいってきた。屋内外の明暗差にサングラスを下げて眼を慣らしながら、傍らに佇むわたしに顔をむけた。
 
 どこか見覚えのある女性だったがすんなり思い出せないので、ぶしつけにも凝視してしまった。彼女もわたしの凝視をうけて、いぶかしげに顔をこわばらせて見返している。……記憶の泥濘をさんざんにかき回して顔が上澄みまで浮かび上がるのをまった。……麗子のようだった。
「レイ子さんですね」
 思わず口をついていたが、名前のあとに大学名、学部と卒業年次を付け加えて問いかけて、人違いにあらかじめ備えるような姑息な予防線をはっていた。
 彼女のこわばった口元と険しい目つきがゆるみ、やがて顔中が明るんだ。
 
「たしか佐伯ヒロシくんだったわね?」
 名前は正しかったが苗字は間違っている。苦笑いして正しい苗字を名のった。
「そうそう、中山くんだったわね。お久しぶり。でも、どうしてここに?」
「出張の帰りです」
 わたしは彼女にしたがって店内へ立ち戻り、就職先と当地へ配属され、この近くに住んでいることなどを語った。
「そうなの。レイもこっちに移った。ほんと、なつかしいわ。何年ぶりかしら。昔の文芸部の人たちはどうしてる?」
 レイ子は、こう店内客の視線を引きつける大声で答えると、額にひきあげたサングラスをはずし、右手の薬指と小指で耳朶にかかったほつれ髪を掻き上げた。昔のレイ子のままのちょっとした仕草のようだった。かつては血の気が薄く、乾いてひび割れていた唇は朱く輝き、歯を見え隠れする雪嶺のようにきわだたせている。口紅のせいばかりだけはない。

「ごめんなさい。ずいぶんと汗をかいたから、ぼく臭いますよ」と詫びながら、わたしはすこし身を引いたあと、「経済学部だったHとは時たま連絡をとってるくらいで、ほかのひとのことは知りませんよ」と答える。
「ほんとうね。中山くんも、ついに薄汚いおっさんになったわけね。シッ、シッ、若い女の子から離れて」と大笑いしながら、指先で追い払うような仕草をする。わたしが記憶しているレイ子は、こんなに気さくに冗談が言える性格ではなかった。
 そうして真顔にもどすと、「Hくんてだれだっけ」とつぶやく。
 彼女は、何度かめのなつかしいを繰り返して、文芸部のコンパの様子などを語りだした。しかし、その内容はわたしが知らないものばかりで、わたしが入学する前のことなのだろう。
 わたしは彼女の話を聞きながら、腕時計にそっと目をおとした。あきらかにわたしの一涼みの休息時間をすぎていた。「あのう。……会社に帰る門限がありますから、残念ですがこれで……」と言い終わらないうちに、麗子はわたしの言葉をさえぎった。
「あっ、引き留めてごめん。でも一度、ゆっくり昔話をしようよ。いろいろ聞きたいこともあるし」と言ってスマホを取り出した。「レイ子のメルアドと電話番号はこれ。中山くんのを教えて」
 わたしもスマホを取り出して情報を交換し、名刺を手渡した。
「たのしみだわ。近いうちにかならず連絡してね。それと……お仕事がんばって」と、ふたたび酷暑の街へ踏み出すわたしの背中に、レイ子は声を残した。

 地下鉄の冷房のよく効いた座席に座り込むと、ついさきほど別れたばかりの麗子の容姿と表情の細部をなんどもも思い返し、わたしの苗字は誤っていたものの名前を未だに覚えていて、偶然の邂逅を喜び、懐かしがってくれたことが、単純に嬉しかった。いや、そんな単純な嬉しさよりも、彼女がむかしのとおり、いやそれ以上に燦然と光り輝いていたことを賛嘆したかった。大学時代と同じく、まだ熟しきらない葡萄の大粒な房のように奔放でありながら危ういみずみずしさを宿していた。
 大学時代は遠く年齢のはなれた歳上の女性ととらえていたが、そもそも年齢は二歳しか離れていない。現在、わたしが二十歳代後半にいたり、世間にもまれ、仕事関係でさまざまな年齢層の男女と交わってきた影響からか、この日の麗子は同年齢のように思えた。いやそれどころか、麗子だけはほとんど年齢を重ねず、わたしたち世間の人間だけが歳をとってしまったような錯覚におそわれそうになる。
 
 それにしても彼女との突然の邂逅は、出来の悪いアニメか粗製濫造のテレビドラマのストーリーのように不自然で、あり得ない偶然のようだった。だが、たんに確率の問題にすぎないと考え直してみた。ロト七の一等に当選する確率が天文学的に低くても、毎週、だれかが当選しているではないか。そうして今日、その稀な大当たりがわたしと彼女に訪れただけのことだ、と上機嫌に信じた。
 そんな数式の羅列だけの味気ない確率論的なことより、不完全ながらも麗子がわたしの名前を覚えていて、懐かしがってくれたことの方が嬉しかった。再会が待ちきれない。
 二人の回顧談になるはずの共通の話題……H、K、N、Fのことなど、ソフトボールだけを熱心にしたこと、コンパのこと等々。指折り数えてみると、憶えている挿話は意外に少ない、などと考えていると眠り込んでしまい、駅二つを乗り過ごすはめになった。

  (つづきます)