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助けを求めたり、誰かに甘える事は必要な事だし、それが出来ないのは生きづらいの当たり前だよね。と思う話。

優しい話ではないです。

子供の頃に、誰かに守ってもらえなかった経験がある人は、人を頼ったり、助けを求めたりする事が出来ない人間になる。
そんなものを、ちらほら見る。

実際のところ、例外なく私も、そういうものは、出来なかった人間だし、今でもあまり得意な方ではないかもしれない。

だけど、そんな私は、現在は普通に助けを求めたり、人に甘えたりする人間だと思う。
実際のところ、現在は、自分自身に対して、それを良しとしているし、それは必要な事だと思って生活している。
そして、他人から助けてもらったり、甘えさせて貰うことで、自分も逆の立場になれるものだと言う事を覚えたのは、社会人になってからだ。

そう言う価値観になる様になったのは、社会に出てからではあるが、きっかけはあった。

それは、1番初めに勤務した会社での事だ。


某大手食品会社の製造部門にて。
入社1年目の頃、私は大量のロス(製品を市場に出せない状態にしてしまう事)を出してしまった。
数にして、数十個くらいだろうか。

多少のロスは加味して製造されているものではあったが、比較的発注の少ない製品で、あまりたくさんの予備を作っていなかった事と。
製品の加工に人手が要らなかった製品だったので、その時の製造ラインは私ひとりで作業をしていた。
当時の”簡単に他人に助けを求める事が出来ない”という性格が災いしてしまい、沢山の人に迷惑をかけてしまった。

ベルトコンベアから流れてくる製品を、包装機に投入していく作業で、当時不慣れな私は、どうしてもベルトコンベアの速度に追いつけなかった。
そうこうしているウチに、製品が渋滞。
渋滞してしまった製品同士で圧がかかってしまって、床に落ちたり、潰れてしまったり。
…あの時は、焦りすぎて声すら出ずに、半泣きになりながら作業をしていた記憶がある。


そんな感じで、てんやわんやしていた時に、たまたま別の工程ラインの先輩が通りかかった。

先輩「わぁ〜。大変!!」

そんな事を言いながら、先輩は渋滞してしまった製品を捌くと同時に、大きな声で人を呼んだ。

先輩「ちょっと!!誰か来て!!大変!!」

程なくして、班長が飛んできた。
それを見た班長は爆笑していた。

あわあわしながら、包装機に1番近い場所で、作業する私は、相変わらず半ベソかきながら、申し訳なさでいっぱいな時間を過ごしてしまった。
もう、すぐにでも帰りたい気分には、その時はなっていたし、自分の不甲斐なさに腹も立っていた。

一通り渋滞が落ち着くと、班長は”渋滞が起きないやり方”を教えてくれた。
あまり同じラインで一緒に仕事をする事のない班長の手解きを受けてからは、私が同じ仕事で不手際を起こす事は、その後1度もなかった。

この事件の後、1番初めに助けてくれた先輩の所にお礼に行くと、先輩はこんな事を言っていた。

先輩「学生時代は、失敗しても、誰にも迷惑かけないし、誰にも影響はないから、黙ってていいよ。
だけど、社会は違うからね。
少なくとも、この会社の仕事は1人で完結はしない仕事なんだから、ああなる前に、誰か呼ばないとダメだよ。
貴方がもっと早く、誰かに助けを求めたら、あんなに製品ロスを出す事はなかったよね?
あの後、作り直すのに、何人の人が動くと思う?
これからは”助けて”だけでいいから、もっと早く、自分で叫んでね。誰かしらか来てくれたり、返事は来るから。必ずどっかに誰か居るから、でっかい声出さないと!!」

当時18歳。
これまでは、散々”自分でなんとかしろ”とか”自分で考えろ”と、突き放されてきた人間だ。
そして、助けを求めても無視をされて育った人間でもある。
人に助けを求めなかった事で、他人に迷惑をかけた経験なんてなく、助けを求めなかった事で注意される経験も初めてだったので、結構衝撃的な言葉でした。

ロスを出してしまった事については、その日のウチに係長にキッチリ咎められ、係長にも助けを呼ばなかった事についてガッツリ絞られました。

この日の出来事をきっかけに、私は誰かに助けを求めると言う事を覚えた。
…むしろ、事と次第によっては、誰かを頼ろうとしないのはそれ自体が無責任な事だと思った。

会社の利益に関わったり、作り直しの手間もかかる出来事でもあったので、助けを求める事で”申し訳ない”とか”攻撃されるかも”とか、自分の印象を守るとか…そんな事を言ってられる訳がない。
自分の力不足で、何らかの影響が出てしまった時に、自分の周りの人間にも悪影響が出てしまう。
それを想像出来ないほど、私は馬鹿ではなかった。

そして、自分が見ていない所で、自分が知らない所で、誰かが頭を下げている事もある事は、かなり時間が経過してから知りました。

その上で、助けてくれる人間は、助けてくれる。
…そんな事を知った瞬間でもありました。


その後、私も人を教える立場の人間だった時期もあったが。
やはり、他人に助けを求められない人は一定数いる。
特に、デスクワークについては、声を出してくれない事には、誰も助けが必要な状況を視認できない。
だから尚更、ヤバい時はヤバいと言ってもらわなければ困る。

しかし、その人たちの言い分は、決まって”他人に迷惑をかけたくない”と言うもので、中には、自分が子供時代に受けてきた、周りの大人からの躾の話を持ち出す人も見受けられる。

…だけど少なくとも、社会は子供時代に自分を突き放した大人達の価値観で動いているわけではないのだ。

確かに、クレクレ厨は問題ではあるが、特に仕事上。
…例えば、職場の同僚や上司、指導係やクライアントが、わざわざ社会人に向かって

「他人に頼ってね」

と、言う時って、好意で言ってる時も勿論あるけれど。
頼って貰えないことで、何らかの悪影響があると言う事を示唆する場面の方が圧倒的に多い様に感じます。

他人に頼るのが苦手と言い訳をして、声を出さない人は、往々にして”繊細さん“が多いので、言葉に気をつけなければならず。
そのマイナス側面を言うのにもめちゃくちゃ気を使うんですが…。
自己犠牲精神が強すぎて、そこまで読めない人。
他人を頼ってほしい理由を頑張って説明しても、やはり自分勝手な自己犠牲精神が優ってしまう人が”他人に頼るのは申し訳ない“と言う人には多い感じがする。

そして挙句には、生きづらいと言う。

…いやいや…そりゃぁ、当たり前だよ。
他人に頼れない→失敗する→周りに悪影響がある→怒られる→自分の気質や育ってきた環境を言い訳に“出来ない”と言う→事と次第によっては避けられる→社会に順応しにくくなる→生きづらい
……そりゃぁ、当たり前だよね。

“声が出ない”
気合いで出すのです。
…というより、本当に迷惑をかけたく無いなら、声は自然に出るものだと思う。
他人に迷惑がかかる事を認識していて、声が出ないと言うのは、単に性格や人格の問題ではなく、通院案件だと思います。
専門的な治療、トレーニングやカウンセリングが必要だと思います。

そういえば、ピアノ再開した初期の頃。
先生は「必要な時に、必要な声が出なくなる人間を、私は病気だと思ってる」
…と言う事を仰っていたが……。そういう事か。


本当に信用に値しないと思っているならば、無理に頼る必要はないけれど。
やはり、基本的には助けてもらえる部分では、甘えた方がいいし、そうすべきだよね…と言う事を、私は大人の社会で生きれば生きるほど感じてしまいます。

大人になればなる程、自分ひとりの力では、どうにもならない事が、本当に多い。

近年では、私を突き放す様な躾をしてきた、親にもそう言っています。
多分、自分の子供をそう言う育て方をしてしまった親は、根本的に見えてないケースが多いのと。
自分自身が認識している以上に非力である事を認識できていない様にも思える。
自己責任や自己完結で、全てが何とかなるほど、社会は甘くは無いし。
理由もなく突き放すほど厳しくも無い。

私の両親は、若くして子育てをする様になってしまった為、社会の事を十分に理解しないまま、親になってしまった典型的なケースだと、ある時に気付きました。
そして、両親もその事に気づき始めたのは、私が自立して、人を指導する立場になり、それから何年か経過した後です。

特に母親は、45歳を過ぎたあたりから漸く少しずつ、精神的な意味で大人の階段を上がっている様に見えて。
実家時代の子育てについて、何やら後悔している様子?の事を持ち出されると私は、“貴方達が子育てするには若過ぎたんでしょ?そればかりは、今更コチラも咎める訳にはいかないから、今更だよ。”と、言ってしまうんですが…
親が社会経験が薄いと、やはり社会性の部分で子供時代の躾や環境に強く影響される様な立ち振舞いを優先してしまうのは、自分の首を絞める事に繋がります。
変えるのは大変だけど、根本的に考え方を変えないと、無限ループします。
親の言う事は一理あるにしても、それが全てではありません。

生まれ持った気質は、おそらく変わらない。
だけど、人格形成や理性を伴った行動パターンは、後天的に変えられるもので。
何でもかんでも“生まれたまま”もしくは“子供の頃の環境に支配されたまま”の状態で社会に出てしまうのは…
パンツを穿かずに外を歩いている様なものだと思ってしまう。

そんな事を考える、社会人〇〇年生です。

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