恥ずかしいなんて思わなければよかったな
小学生の頃、確か4年生くらいまでピアノを習っていた。
やりたいと言い出したのは私だったけれど格別な憧れがあったわけではなく「周りがやっているから自分もやりたい」という、なんとも頼りない子供らしい理由だった。
結果的に「辞めたい」と母に申し出た後「もうちょっと頑張れ」という祖父の言葉に負け、そこから渋々1年続けた。無事に辞められた時は開放感に満ち溢れていた。
私はピアノが好きになれなかった。
今思えばなんてもったいないことをしていたんだろうと思うけれど、当時私はほとんど練習をしなかった。だからもちろん上手くなんてならない。軽やかに鍵盤をたたき、滑らかな音を奏でる自分は妄想の中だけで終わった。上達しないのは練習不足のせいなのに、上手く弾けないことを理由につまらないと投げ出してしまった。
その後、母が市民向けの広告で見つけた小学生向けのマリンバ教室に、5年生と6年生の2年間通った。それでもやっぱり、私は練習をあまりしなかった。
自分に音楽は向いてないのだろうなと子供ながらに察し、中学では文化系の花形である吹奏楽部には目もくれなかった。
私はどうして練習が嫌いだったんだろう。
どちらかと言うと、できないことに対しては持ち前の負けん気で時間をかけてでも向き合うことが多かった。だけど音楽に対してはその負けん気を発揮することはなぜかなかったのだ。
当時、ピアノは家族が集まる居間に置かれていた。母が子供の頃使っていたものを祖父の家からわざわざ運んでもらったのだ。古いピアノだったけれど、それなりに贅沢なものを与えてもらっていたと思う。
練習をすると音が部屋中、それどころか家の外まで響き渡る。昔の木造住宅に防音なんて概念はなかった。
楽譜を読むのが苦手で指がいちいち止まった。軽快なテンポの曲ものろのろとゆっくりしか進むことができない。
基本的に私は見栄っ張りで、苦手なことやできないことを人に悟られたくないように振る舞ってしまう。そんな不細工な音を奏でている自分を誰かに見られるのは私にとって耐え難いことだった。
だけどピアノは家族全員が集まる部屋にある。当時母は専業主婦だったし、自営業の父の帰りも早かった。私のピアノなんて聴かないでほしい、こんな簡単な曲に苦戦している姿を見ないでほしい。練習するのはもっぱら家に1人でいる時で、誰かが帰ってくるの気配を感じると練習をやめ、そっと蓋を閉めた。そうしてどんどんピアノの練習の頻度は少なくなっていった。
見栄を張ったっところで何も残らないとその時知っていれば、もっと頑張ろうと思えたのかもしれないと当時の自分を残念に思う。下手だから練習するはずなのに、下手を恥らって練習ができないなんてなんて情けないんだろう。
弱い部分をさらけ出して、だけど、だからこそ頑張るんだ、もっと上手くなるからお父さんもお母さんも見てて!なんて当時の私は思えなかった。
だけど恥ずかしいという理由で向き合うことから簡単に逃げてしまった自分はけっこう格好悪かったなぁ。
大人になってできないことをさらけ出すのは多分子供の時よりも勇気がいる。だけど向き合うために格好悪い姿を見せられることの方が、よっぽど格好いいのだ。
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