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12年前のこの日、語り継ぐというほどのことではないけれど、あの日を日本で体感した記憶でも、ひとつの記録になるのかもしれないと思い書いてみることにする。

12年前のあの時間。
私は東京の神保町にいた。大きな災害が起きたリアリティや実感など何もないまま、電車が止まっているならタクシーに乗ればいいじゃない、とばかりに、急ぎでもない仕事をしていた。

揺れた瞬間もはっきりと覚えている。
隣の席の子に、Excelの使い方を聞かれ、その子のPC画面を指差して説明していた時だった。デスクトップの大きな画面が不安定な揺れをしたかと思ったら、揺れてる!の声でそれを自覚した。
その後も何度も揺れ、その度に女性の悲鳴がフロアに響く。天井までの壁一面が本棚になっている一角は特に揺れるたびミシミシと音を立てた。幸い、我々がいたのは低層階で本棚も何も倒れずにすんだが、同じビルの上層階では本棚が倒れるなど被害があったと、後に聞いた。

最初の揺れからしばらくフロアのテレビから流れる映像を見たり見なかったり…この時はまだ本当になんの実感もなく、先に書いたような空気感できょうは少し早めに帰ろうかな、くらいの気持ちだった。

ことの異常さに気づいたのは夕方。
一足早く職場を出た子から、電車も止まってるしタクシーもつかまりませんよと連絡。どころか、もう道路は大渋滞だと言う。

ひとまず行けるとこまで行くかと職場を出たら、歩道いっぱいに歩く人の波。神保町から新宿方面へ向かう人の流れは、不謹慎な例えかもしれないが、いつか行った川崎大師での初詣を思い出した。

私は同じ方向に向かう同僚と2人で歩いた。ふだんすごく親しくしている人かというと違ったけれど、1人では外に出ることができなかった気がする。とてもありがたかった。
昼間は少し暖かくなってきた頃だったが、日が暮れるにつれ歩いているうちに身体が芯から冷えてくるのを感じた。

歩き進むうちにさらに人は増え、ヘルメットを被って歩いている人、非常袋と書いた荷物を持って歩いている人をチラホラ見かけた。
きっと会社を出る時に持たされたのであろう。いつも通りの格好で歩く自分は、とても不用心に思えたのと、なにか格差を感じずにはいられなかった。貧富の差ではない、備えている人は生き延びることができるんだ、というひとつの危機感のようなものだった。

多かった人もだんだんと分岐した道に分かれ、少し人がまばらになり、いよいよ日も暮れてしまった。暗くなると、このまま西新宿を越える道を進むのが色々な意味で怖くなり、そのまま同僚の家に泊めてもらうことにした。

しばらくして同僚の旦那さんも帰ってきて、その夜は3人で過ごした。夜も余震は続き、夜中に何度も全員の携帯電話が警音を鳴らしたのでほとんど眠れず朝になった。
電車はその日の0時頃から動いていたとは後から知る。私は土曜朝に始発で帰宅した。帰り道、車のショールームのガラスが飛び散っているビルを見た。東京でも地震の被害が出ていたことはほとんど報道されていなかったから驚いた。

家に帰る前にスーパーに寄って、パンなどの食料と電池、トイレットペーパーなどを少し買って帰った。異常事態がこれから始まるのだと覚悟していたからである。

土曜も昼頃になると、いろいろなことが分かってきた。ニュースを見ている間にも余震がくる。非常事態を実感せずにはいられない週末を過ごすなか、わたしは不安ばかりが大きくなっていった。当時彼氏がいなかったこともあり、1人でいたことも大きかっただろう。頼る友人はいないこともないが、結婚していたり実家住まいだったりで甘えるのは気が引けた、何よりそこへの移動中に余震が起こったらと思うと、私はマンションから出られなかったんであるが。

週明け月曜からも仕事などほとんどする気にならず、在宅という名で、メールチェックと最低限のことをやっていた。そして忘れもしない火曜の深夜、今度は静岡で震度4の揺れ。その瞬間、わたしは翌日の飛行機を予約し西の方角へと発つことを決めた。

水曜、わたしは羽田空港にいた。また大きな余震にあった。無事に飛んだときはなんとも言えない安心感だった。実家に戻ったわたしのキャリーバックには1日分の着替えと、2リットルの水やタオル。都内での羽田への移動中、1人で被災した時のためのものがほとんどだったことから、どれだけ余震が怖かったかが分かる。

その時は1週間ほどで東京に戻ったが、実際わたしは2011年10月にはすべてを引き上げ実家のほうに戻っていまに至る。
我ながら、今思えば仕事の整理なんかを考えるとかなり早いのではないかと思うが、きっかけとなったのは間違いなくこの日で、決め手になったのは東京という街で強く孤独を感じたことにある。この街にいると後悔すると思ったのだった。魅力に思えた東京にもうなんの未練もなかった。

たいした被害も損害もないわたしレベルかこの日のことで何を語るか、であることは承知している。でも、わたしレベルでもこんなにも大きな影響を及ぼした出来事であるのだ。
当事者となられた方のつらい思いは計りしれないし、想像を超えるものであろう。同じ気持ちではいられないけれど、わたしにも少しだけ祈らせてほしいと思うし、できる支援はしていきたいと思う。

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