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【実話】最後のモダンガール

いまから百年以上も前の1918(大正7)年、彼女は大阪の街で生まれた。

それは、大阪の街が繁栄の一途を辿っていた時代(大大阪時代だいおおさかじだい/モダン大阪)の幕開けを告げる頃であった。

当時の人としては珍しく彼女は京都の大学を卒業し、大阪にある大きな病院の看護婦(看護師)となった。彼女は英国式の英語とドイツ語が堪能であった。まだあの忌まわしい戦争が始まるよりも前の話である。

やがて彼女は次郎と出逢い所帯を持った。次郎は大阪府警察部(現在の大阪府警)の警察官である。

その後、昭和40年代(1960年代)まで彼女は看護婦を勤め、最後は看護婦長(看護師長)を長く勤めあげた。

次郎の話も少ししておこうと思う。

次郎は大正5(1916)年生まれ。あまり多くを語る人ではなかった。とくにあの戦争については、ほとんど何も語らなかった。ただ1度だけ、空襲の話を孫にした事がある。

「空襲警報が鳴ったらなぁ、真夜中でも飛び起きて受け持ちの区域の住民を避難させなあかんかった。逃げ遅れた人を守らなあかんかった。そら、命懸けやったで。警報が鳴るたびに命懸けや。あんな怖かったことはあらへん。そら、恐ろしかったわ。あんな事は二度とくり返したらあかん」

と。

次郎は1970年代に病を得て、あっけなく亡くなった。

それからも彼女は病気ひとつせず、社会奉仕(ボランティア)活動に勤しんだ。その活動で欧州各地や香港、台湾にも出掛けた。それが彼女の生き甲斐でもあった。

けれども寄る年波には勝てず、平成26(2014)年に癌を患い、翌平成年27(2015)年の12月、それは、真冬とは思えないような明るく温かな陽射しが降り注ぐ穏やかな日に、永い眠りについた。彼女のその姿は安らかで微笑んでいた。

享年97。

彼女が晩年、最後の病床でこのような事をよく言っていた。

「もう1回、心斎橋しんさいばしをブラブラしたいなぁ。しんブラ、懐かしいなぁ。あの頃はよかったなぁ」

彼女は、最後のモダンガールだったのかも知れない。

大大阪の街で生まれ、大大阪の街で働き、大大阪の街で次郎と出逢い、そして彼女は大大阪で永き眠りについた。

彼女の名はサキ。
私の(母方の)祖母である。
これはほんとうの話である。

<おしまい>

(2022年10月20日)

©2022 九條正博(Masahiro Kujoh)
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