差別について
資源には限界がある。
限られた数のものについて争うと、差別が起こる。
持っている者と持っていない者が出て、差別が起こる。
数が限られていると、全員が手に入れることはできない。
数が限られていないと、全員に行きわたらせることは可能だ。
限られた数のものについて争うと、差別が起こる。
なにかにこだわらなければ、差別はなくなる。一つのことにこだわらなければ、差別はなくなる。ということだろうか。
希少価値。
限られた数のものは、希少価値と呼ばれて、価値があるものとされる。
差別をなくすには、希少価値が希少価値ではなくなる論理が必要ということなのだろうか?
ダイヤには希少価値があるが、希少価値という概念を一旦外して見ると、それはただのキレイな宝石だなあ、でおわる。
だが、大体においては「キレイだなあ」から「欲しい」という行為に発展する。
これは、自分の脳内に起こった反応・イメージを、手に取る形にしたい、ということだろう。
脳内だけですませておくならば、欲しいという行為には発展しない。
だが、それでは何か、欲求不満が起こるのだろう。だから脳内イメージだけでは、記憶だけでは満足できない。
欲しいものすべてを手に入れたいというのは、それは強欲というものだろう。
狙ったものを手に入れたい、というのが強欲ということなのだろうか? 狙ったものじゃないなら、人はだれでも何かを手に入れている。
何かを手に入れたいという強欲な、目的に向かう力があり、逆にその反対方向の力が自分に向かっていて、それが苦しみとなる。
だから、その目的のものを手に入れたとしても、自分に向かっていた目的と反対方向の力が無くなるだけで、実質的にはそれで苦しみがチャラ・帳消しになるというだけである。
つまり、その目的のものを手に入れても、手に入れる前となんらかわりはない現状になるだけだということだ。
心の状態としては。
強欲は、よけいな負担が目的獲得の過程にかかっているだけでしかない。
目的獲得の過程の苦しみが楽しい、という話はまた別の話であり、強欲が苦しみを生むのは確かだ。
希少価値。
限られた数のものは、希少価値と呼ばれて、価値があるものとされる。
あるいは、希少だったとしても、価値がないとされるものもある。
差別と希少性。
差別は、「限られたもの」と関係がある。
差別と希少性。
たとえば、手が不自由な人がいたとして、その人を差別的に笑ったとしよう。
その場合の希少性は、「手が不自由」ということなのだろうか。
それとも、「手が自由」というのが奇跡的なほどに希少性があるということなのだろうか。
この場合での笑うという行為は、自分が多数側に入っているから安心して笑えるということだと思うので、手が自由な、いわゆる一般的な人が多数側であり、手が不自由な人が少数側、つまりは希少性ということになると思う。
希少性は少数側であり、ということは、少数なことのほうがすごいという論理をつくれば、差別はなくなるということなのだろうか?
いや、それだと逆の差別が起こるだけかもしれない。どちらがすごいということ自体が、問題なのだろう。
やはり、差があること自体にこだわらない、ということが差別をなくすことなのだろうか。
YOU TUBEの動画で、CGのキャラクターの変な挙動に対してのコメントで、「ガイジ」という言葉を自然に普通に使っているコメントを見て、気色悪くて仕方がなかったのだが、この場合の、そのコメントが気色悪いという私の反応もまた差別になるのだろうか?(「ガイジ」という言葉は「知的障害児」という意味の差別的ネットスラングである。)
これは、差別している人を差別しているという構図で、それもまた差別ではあるだろう。結局は悪循環だと言えるだろう。悪循環を断つ、というのが差別をなくす、ということになるということだろうか。
いわゆる悪い意味での「差別」は、「限られたもの」と関係がある。
資源の話では、限られた資源を手にしている少数の人が優位で、障害者の差別の話では障害のある少数の人が劣位という、同じ少数でも逆の形になっている。これはどういうことなのだろうか。
おそらく、役に立つ、役に立たない、という考え方が原因なのだろう。
役に立つ、立たないは目先のことでしかない。
人間万事塞翁が馬という格言もある。役に立つ、立たないは目先のことでしかない。
差別をなくすということについてのとりあえずの結論としては、こだわりを捨て差別を起こさない、起こってしまった差別に対しては、さらなる差別を生むような悪循環を断つ、ということになるだろう。結局は仏教的な、輪廻転生しない、というような話になった。
富の格差というのが、社会の大きな苦しみの原因の一つだと思うので、この「強欲問題」について考えるのは重要だ。富とは何なのか。
おもしろかったら100円ちょーだい!