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『君たちはどう生きるか』 感想


とくにたいした感想を書くつもりはない。
ただ、きのう映画館のファーストデイの割引で、1300円で見たので、感想を同じ1300円の値をつけて売ってみるというのが、お金というものに対する感覚、特にこれが売れた場合に、変な磁場を生みそうな気がするので、それをやってみたいだけだ。誰か1人でもこのノートを買ってくれたら、それで映画代がチャラになるという、なんとも変な感覚。お金。チャラになるといっても、それはスッキリするということではなく、なにか、ぐにょぐにょしたチャラだ。そう、お金は実は「現金な」とか言われるような、スッキリと割り切れるものではなく、全然公平でもなんでもない、かなりズルいものだという感覚を、今感じている。お金は公平でもなんでもない。バランスとしては、かなりイビツな歪んだものだ。異なるものを、同じものとして、結びつける、お金。一見公平に見せかけた、その非対称性。

それでは感想。



まず、とくに細かい夢判断的な、無意識解釈みたいな考察をするつもりはない。大叔父が宮崎駿で、なら主人公は宮崎駿であると共に新しい人生を歩もうとしている誰かしらの、まだ誰でもない少年か?、確定した大叔父としての自分と、まだ何者でもない傷ついた少年、2人の自分、そしてその間に登場する不可思議な人物、鳥たち……などということは、映画を見ている最中にまったく考えなかった。そういう「読み解き」みたいなことは一切しなかったし、とくにする気も起きなかった。だが、やらないといいながら今やってしまった、そういう無意識の解釈みたいなことは、実際、正当性のある解釈ではあるだろう。ただ、そういう批評の仕方に、もはや興味はない、ということだ。

この映画は楽しみにしていた。宮崎駿のおそらく遺作になるだろうし、絶対映画館で見なければ!、ネタバレなども見ないように、という心持ちで来る公開を待っていた。(む、そういえば前作『風立ちぬ』と前々作『崖の上のポニョ』も、これが遺作かもしれない!劇場でミネバ!と思って見に行ったな……。もういいかい? まあだだよ、ってことか? 黒澤明的に。いつまで隠れつづけるんだ……。いいかげん探しに行かせてくれ。?)死なねば評価は確定しない?

さて、それで、まっさらな気持ちでの映画体験だったわけだが、最初の空襲警報の音は気持ち悪かった。これは結局、異常に大きい音そのものが恐怖なんだろうか? だが、重大な物事に対処するための「警報」であるなら、その警報で嫌な気分になる必要はないような気はする。警報が人体にとっての「痛み」だとすれば、痛くない警報ってのも考えられる気がする。麻酔としての警報、無感覚な機械的な受容での警報、SM的な快楽としての警報、など? で、そして続いて、火事の現場に駆けつける場面。ここは、今までのジブリにないタッチがあって、おおっ、新しいことをやっている、と、感じてよかった。スピードを表す絵のタッチがよかった。今までにないジブリの感覚があった。アニメーション的な満足感はまずここで1つあった。で、さてそれで、まずは物語の時代設定が冒頭で提示されたわけだが、しばらく見ながら、これは自伝をやる感じか?と思った。これで、アニメーターになるまでを描く、語る、ということなら、遺作にもふさわしいかもしれない、とも今は思う。だが、とりあえず単純にそういうものではなかったのは、見ての通りだ。そのへんのことはドキュメンタリーである程度提供されているので、まあ宮崎駿本人がやるとしたら、本人しか知らないものを提示する必要があり、つまり秘密を告白するようなことになるが、まあそういうことは宮崎駿本人は、それをやるモチベーションはとくにないのだろう。宮崎駿は、秘密は秘密としてあるのが大事、という考えだと思う。そこは私もそうだと共感する。ならば、宮崎駿のモチベーションはなんだろうか? まあたぶん、世の中に言いたいことがある、ってことなんだろうな。生きていくうちで溜まっていく不満みたいなものを作品として表現する、ということ。そういう職業。それで、宮崎駿は国民的作家と言われても違和感はないほどの存在になった。だが、それはうまいこと経済の波に乗れた、ということがそび半分を占めているだろう。もう半分は、児童文学的な良心、遊び心が素晴らしかったからだろう。今の時代は、もうその国民的作家の半分の要素である、国の成長みたいなものが弱くなっているので、もう宮崎駿は国民的作家から外れて、残るは児童文学的な良心と遊び心しかない、という感じだ。なので、今は一人のレジェンド老人だ。ただのレジェンド。威光をなくしていくじいさん。昔がんばっていたことが評価、信頼されているから、周りが作品づくりを手伝ってくれるレジェンドじいさん。なので、今作が個人的な作品のようになっているのは、納得する。1人の人間の妄想、夢。それが表現されている。1人の人間の妄想、夢。それは誰でも持っているので、別に宮崎駿でなくてもよい。今回は宮崎駿だった、ということ。私は宮崎駿というレジェンド老人の妄想、夢に、付き合った。友の話を聴く。映画という媒体なので、2時間。例えば、今の時代は誰でもライブ配信などもできるし、好きに作品を発表できる。だれかの審査は基本うける必要はない(当然、基本的な社会秩序を乱さないような審査は受ける。)そういった、誰でもできることの1つとして、今作はある。だから、今作は実際、宮崎駿の、「私はこう生きた」ということとなるだろう。

さて、話の展開の順序に戻ると、まああまり最初のほうはおもしろさが、なかなか始まらない、という感じだった。鳥(アオサギ?)が唯一事前情報としてあるもので、おっ出てきたな、この鳥は重要らしいぞ、と思うが、一体しかしこの鳥はなんなのかはよくわからないし、主人公もとくに何か趣味があるということでもないし、話が始まらない感じだった。思うに、これくらいの年の少年は、何かしらに興味を抱いたり、夢中になったりはするものではないのか? 疎開?前の少年がどんなだったかは描かれていない。母の死に関することだけ。つまりは、ここで、母の死というのは、この映画のメインのテーマだと言うことが、言えるだろう。少年は何かしらに夢中になるもの。今作の少年は、謎の、いわくつきの建物を発見する。この建物が、夢中、夢の中ということとなる。少年は夢中になるものだ。それは、過去の人物、宮崎駿の立てた塔だった。隕石という自然現象、才能というギフト、それは、まれな現象……そのまわりに、建物を建てる。覆う。となるとつまりはこの建物はジブリということになるだろうな。映画の中では隕石のくだりは結構後半になってから出てくるから、つまりは後で歴史を知る、ということで、この少年はジブリに触れた、出会った少年の、象徴、といった感じになるだろうな。ジブリという建物に入っていき、中身を見ていき、成り立ちを聞いていき、世の中の仕組みを学んでいく。知っていく。こう考えていくと、この作品は確かに宮崎駿の人生の、ジブリで映画を作ってきたことの、集大成的な作品になっていると言えるな。建物の内部では、これまで作った作品たちのイメージが論理的には破綻した感じで出てくる。途中で出てくる四角とか三角とか球とかの積み木の数がこれまで宮崎駿がつくった作品の数?だとかなんとか考察されているらしいが、そうなのかもしれない。私は特に追求して調べてはいないのでその数が合っているかは分からないが。とにかくこの建物がジブリで、隕石が宮崎駿の才能で、鳥がアニメーターなどの作品づくり関係者で、この建物、世界を維持している大叔父は宮崎駿で、インコ大王?は鳥の中でも権力を持った側近の鳥なのでプロデューサーの鈴木敏夫で(追記:他の人の感想・考察を見たら、どうもアオサギが鈴木敏夫さんのようだ。インコ隊長?は宮崎吾朗ってことになるか? それとも、高畑勲か? 制作費使いまくってジブリ壊すから?)、船を漕いでいた自分で獲物を捕ることの出来ない、獲物をさばくことのできない個性のない、特殊な技術を持っていない人たちが千と千尋の神隠しでいうカオナシ的な人々で、ということが確定していく。母親は、実際の母親だろう。継母は?継母は母性そのもの、とかだろうか? 母親がいなくなっても、心の中に生きている、ということだろうか。

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