人間の基礎、この私とこうでない私の同時存在について。

最近、ここ1ヶ月くらい、批評家・哲学者の柄谷行人を読み返していて、そして他にも最近ユーチューブで哲学本の分かりやすい解説の動画などを見ている。見ているチャンネルは、「帰ってきたロシュフコー」と「何か分かりづらいチャンネル」で、どちらも解説が分かりやすく、おすすめです。

それで、今は柄谷行人の『トランスクリティーク カントとマルクス』を読み返していて、今さっき、ここ最近の読書などでの思考が簡潔な文として結実したので、それをここにまとめたい。その簡潔な文とはタイトルにもある、「この私とこうでない私は同時に存在する」という、人間の基礎となる話である。

示唆されたのは、『トランスクリティーク』の254ページの、シュティルナーからの引用のところだ。シュティルナーは1806~1856年のドイツの哲学者で、私は読んだことはない。今度読みたい。『唯一者とその所有』からの引用がしてある。その引用の前の柄谷行人の文章から見ていこう。

「シュテルナーは、人はエゴイストであると主張する。だが、同時に、彼は通常エゴイストと見なされるのはエゴイストではない、という。たとえば、人が利益あるいは欲望の追求に「憑かれて」(所有されてpossessed)いるのであれば、それはまさに「私の所有」を失うことであり、エゴイストではありえない。だから、彼がエゴイズムをいいながら、連合(アソシエーション)を志向することは少しも矛盾しない。むしろ、彼はエゴイストのみがアソシエーションを形成しうるし、また、アソシエーションはそのようなものであるべきだといったのである。彼はプルードンの構想するアソシエーションに、教会や共同体の臭いをかぎとっていた。彼はそれが強いる道徳性を否定した。しかし、そのことによって、彼はむそろ新たな倫理を提起しようとしたのである。シュティルナーはいう。これまで、人々は、個人を、同じ家族として、同じ民族として、同じ国民、同じ人類としてのみ承認してきた。つまり、「高次の存在」を通してのみ個人を認めてきたのであって、個人を単に個人として認めたことは一度もない。」

この文章のあとに、シュティルナーの引用がされる

『「だが、私が君を愛し、私の心が君に養いの糧を見、私の欲求が満足を見出すがゆえに、私が君を敬いまた育むとき、それは、君がそれの聖化された体となっている何かより高次の存在のためでもなければ、私が君の中に亡霊を、つまりは君において現象する精神を見るためでもない。それはまさしく、エゴイスト的な喜びのためなのだ。君の本質をそなえる君自身が、私にとって価値があるのだ。けだしそれは、君の本質が、何らかのより高次の本質ではないく、君より高くより普遍なるものではないから、君がそれであるがゆえに君自身であるというそのようにして唯一であるからなのだ。」』

引用後の文章は、こうつづく。

「シュティルナーがいうのは、家族、共同体、民族、国家、社会というような「類的存在」が押しつける道徳ではなく、それらを媒介せずに、現に目の前にいる他者を自由な人間として扱う、そのような倫理である。シュティルナーが「エゴイストたちのアソシエーション」として社会主義を構想したのは、その意味である。さもなければ、社会主義は、「社会」(共同体)の優位ということに帰結するだろう。」

ここで私は、東浩紀の『一般意志2.0』が思い出される。東浩紀が一般意志2.0で書こうとしてたことが、このエゴイスト(自由を持った人間)による政治の可能性だということだろう。

さて、前置きが長くなったが、ここから、私の最近の読書などから示唆されてまとまった考えを書こう。さっきメモに書いたものをそのままここに書く。


254ページからの示唆。この私と、こうでなかった私。この私は、こうでなかった私と同時に成立する。つまり、自由を認める立場の哲学。決定論ではない。1つの体系ではない。1つの体系だと、自由はないという話になる。すべては最初から決定しているのが、決定論。そこに自由はない。が、実際は、決定したあとで、振り返って体系化しているので、すべて決定していたと思ってしまうのだ。すべてが決定していたと見るのは、遡及的なのだ。この私と、こうでなかった私。それが同時にある。こうでなかった私は、こうでない私と言ったほうがより同時的に聞こえるだろう。こうである私とこうでない私、それが同時にある。観測したら決定する。シュレーディンガーの私。こうでない私は、他者のことだ。未来の私でもある。過去の私でもある。こうでない私は、可能世界の私だ。複数の選択肢があった場合に、他の道を選んでいたらどうだったか、という可能世界。この私は、そのひとつの結果。今の選択をしていない私も、今の私と同時に存在する。そうじゃないと、どちらも存在しないこととなる。どちらも存在していないというふうに見ると、人間としては都合はわるい。つまり、今の私が存在しているかどうかで、存在していると見ないと、つまり具体的にいうとに、痛みなどをある、ということにしないと、社会は成り立たないので、存在しているとみたほうがよいのは明らかだろう。私たちは痛みを感じる人間だ。これが一応前提となる。この私とこうでない私、これが同時にある。自由な私と自由な他者、これが人間の基礎だ。心のバランスとして、この私とこうでない私とのバランスということが考えられる。こうでない私と同じ意味の、こうでありたい私、つまり理想の私というものが強すぎると、この私は単に否定されたりもするだろう。それではこの私を否定することになるので、ダメだ。同時に存在していないことになる。それがヘーゲルの弁証法の悪いとらえかたなのだろう。つまり遡及的にできた体系を最初から決まっているとみている。この私を否定して、こうなりたい私になることは、成立しない。逆に、こうなりたい私、こうでない私を否定してこの私になることも成立しない。基本として、この私とこうでない私は、同時に存在している。それが基本だ。例えば、お金持ちになりたいから、今の私つまりこの私を否定して金儲けのことだけの行動をする、ということは、矛盾している。破綻している。この私を否定しているので、基本が成立していない。つまり、なになにのために、なになにをやる、ということはだめだ。とはいえ、それだと何も行動できないことになってしまう。すべてを無意識にゆだねると、それもまた、こうでない私一辺倒になってしまう。他者一辺倒になってしまう。それはだめだ。繰り返すが、この私とこうでない私が同時にないとだめだ。このことをふまえて行動するとなると、あえてこれをやるが、あえてやっているということは忘れない、ということになるか。つまり、括弧に入れて、括弧を入れていることは忘れない、ということだ。括弧に入れたら、括弧を外すのを忘れない、ということだ。この私とこうでない私は、同時に存在するのだが、人間が考えたりするには、その同時性を捨てなければならないこととなる。これは仕方のないことだ。

最後にもう一度、人間の基礎を確認しておこう。この私とこうでない私は、同時に存在する。この私と、こうでない私と、こうでなかった私と、こうなりたい私は、同時に存在する。と同時に存在しないともいえる。が、私たちは人間なので、存在するとしたほうがよい。

この「この私とこうでない私は同時に存在する」ということを頭に入れておけば、いろいろな人の話などが理解しやすくなる。また、自分の悩みなどの解決の糸口にもなるだろう。


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