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松原裕の訃報に接して

今朝、何気なくFacebookを見ていたらこのニュースが飛び込んできて一瞬心臓が止まった。彼は僕がバンドマン時代にとてもお世話になった人で(というか彼にお世話になっていない神戸バンドマンはいないと思うが)僕やバンドの想いを実現するためにいろいろ奔走してくれた人の一人だ。

僕と彼の出会いは、それこそ今から遡ると20年くらい必要になるが、ライブハウスだ。彼は当時、神戸スタークラブというライブハウスのブッキング担当で、僕たちのバンドはそこでよくライブさせてもらっていた。彼は若くして(僕の一つ年下だ)そのライブハウスの中核メンバーだった。ブッキング担当という仕事は、僕の理解ではライブハウスに出演したいと申し込んできたバンドマンたちとコミュニケーションを取り、彼らが売れるためにあらゆる方法を使い実現していくもの。当時すでに彼はライブハウス2つとインディーズレーベルも担当していて忙しくプロデュース業に飛び回っていた。当時「自分たちだけで何か作りたい」と思い上がって音楽をやっていた僕からすると、誰かのために頑張るプロデュース業の何が楽しいか理解できず、いったいどのようなモチベーションが彼をそこまで動かすのかハッキリいって分からなかった。

(有名な話だが、彼の真骨頂の一つはライブ後の打ち上げ。ブッキング担当としては打ち上げも大事な仕事の一つで、席に参加したバンドマンを盛り上げ、対バンしたバンドどうしの間を取り持つ。そのために彼の持ちネタ?的な宴会芸は百を下らずそれらは決して上品なものではないため、初めての人たちは彼のファンになるか「こんな打ち上げやるライブハウスにはもう来ねぇわ」の二手にハッキリ分かれる、名物的存在であった)

彼がそういった働き方を自然体でやっていたかどうかは分からないが、COMIN' KOBEなどの話を聞く限り、本能的に楽しんでやっていたのかもしれない。

僕がやっていたバンドは、彼が運営するライブハウスを拠点として活動してたし、彼のインディーズレーベルからCDをリリースしたし、そのアルバムを引っさげて1ヶ月ほど全国のライブハウスをツアーしたのだが、そのブッキングもやってくれたしで、大変お世話になった。

エピソードを3つほど吐き出したい。

上述の宴会芸からも分かるように彼は「コミュニケーションオバケ」とでも言うべきキャラクターで、誰とでも瞬時に仲良くなり場を盛り上げていく。インディーズバンドが全国ツアーをやると、ライブハウスだけでなく各地のCDショップにも営業をかける。「僕たちのCDを(できる限り良い棚に)置いてください。できればPOPも書いてください」と店員にお願いして回る。僕含めバンドのメンバーはそういうことがめっぽう苦手な人ばかりで(今思うとそれが売れなかった原因の一つだと思う)ツアーに先駆けてどうしたものかと対策を練るべく彼に相談した。彼いわく、そのような営業商談交渉飲み会の類の場合は「すべて事前に何をどう話すか準備していく」と言っていて驚いた。飲み会におけるあの一瞬一瞬の閃光のような宴会芸も、準備の蓄積なのかと思い「これはコイツには勝てないな」と心底思った記憶がある。

もう一つ、その全国のライブハウスのツアーを回る時。彼はレーベルにいくつものバンドを抱えていたので、ツアー中に気をつけることをいくつか教えてくれた。彼が念押しして言っていたのは「途中で金がなくなったらいつでも連絡して。ソッコーしのげる金を振り込むから」。今思うとこれが彼の財布からなのか事務所の財布からなのかどっちのつもりで言っていたのかは不明だが、この懐の大きさとそれを事前に伝える配慮具合はなかなかできないものだなと思う。このバンドが売れるか売れないか分からないし、どのくらい投資すればいいかも先行き不明。そんなバンドにここまで断言するとは。おそらく想像するに、彼は金絡みでたくさんのバンドがツアー断念(もしくはもっと酷い状態)したのをたくさん目の当たりにしてきたのかもしれない。そんな思いと「次はそうさせてたまるものか」という意思が件の言動に出ていたのだろう。

最後、僕がバンドをやめて2-3年後。神戸での仕事を辞めて東京に引っ越しをするべく住んでいたマンションを引き渡した直後、彼からの電話が鳴った。バンドをやめて数年、彼とは連絡を取れていなかった。それはバンドを辞めて新しい道に夢中で忙しかったせいかもしれないし、あれだけ応援してくれていたのに成功できなかった後ろめたさかもしれない。電話にでると「あんちゃん、最近どう?」と話してくれた。特に用事があるわけでもなかったらしく偶然電話をしたと言っていたが、そのタイミングは僕の人生が神戸→東京と変わろうとする瞬間で。その時は数分しか話さなかったけど、今思うと彼なりにバンドを辞めた僕のことを少し思い出して忙しい中受話器を取ってくれたのかもしれない(ちなみにこれは2008年のことで彼が闘病するずっと前の話である)

いつもは記憶の底に沈殿していたのに、朝からいろいろ思い出してしまっている。彼の仕事ぶりや闘病生活はネットで知ったが、特に連絡は取らないままだったし、今朝の訃報を聞いてからようやく思い出が、それこそ思い出したように、どんどん出てくる。件の電話依頼連絡を取っていない。あれだけお世話になりながら自分の不義理を本当に恥じている。自分がバンドをやっていて、それは結果には結びつかなかったけど、その間彼と接するにあたり人との関わり方や仕事へのスタンスなどは、少なからず影響をもらっている。「結果を決めて努力で帳尻」とてもいい言葉。そのエッセンスを少しでも自分が彼から受け取っていて、この先の人生に活かせればと思う。

まっちゃん、お疲れ様。ゆっくりするのは性に合わないだろうけど、少しはゆっくりしてください。

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googleドライブ漁ったら、少しだけ写真が出てきた。2005年10月となっている。僕たちのバンドの宣材写真を撮るときに彼も何故か撮ったやつだ。もう少しあるかと思ったけど、意外と残ってないもんだな。

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