『Sunday Morning』 vol.4 【小説】
https://open.spotify.com/intl-ja/track/11607FzqoipskTsXrwEHnJ?si=a03c6f1bc008404d
もう、何回目だろう。
レコード針を、持ち上げては、載せなおす。
「聴いてると、つわりが治まるの」
会社の上司が、出張土産にくれたレコードを、このところ、佳代は好んで聴いている。好んで、というより、ほとんどチェーンスモーカーのように、絶え間なく聴いている。
もらった当初は、レコードとは思わなかった。
ジャケットに、ミュージシャンの写真も、名前すらもなくて、ただのバナナが一本、かすれたように印刷されている。面白いので、テニスやクルマ関係の雑誌くらいしかない、僕の部屋に、絵みたいに飾っていた。
結婚して、佳代が、この狭い下宿で暮らし始めたとき、唯一、喜んだのがこのレコードだった。
驚いたことに、彼女がジャケットを開封してみると、バナナの皮の下に、剥いたバナナの絵が、現れた。
思わず、顔を見合わせて、笑ったことを思い出す。
どうやら、あのアメリカ人には、一杯食わされている気がする、昔から。
ハネムーンベイビー、というのだそうだ。
「ケイちゃんがね、はしたない、と言うのよ」
ケイちゃんというのは、佳代のすぐ上の姉だった。
ケイちゃんは、医者に嫁いでずいぶんになるが、最近やっと子宝に恵まれた。他の姉たちも、大企業の商社マンと結婚して、社畜になった夫をよそに、子連れで、よく実家に集っているらしい。
佳代は、四人姉妹の末っ子で、僕の見るかぎり、姉妹で一番、美しかった。
そのへんも、ケイちゃんは気に食わないのだろう、きっと、昔から。
佳代は、ほとんど実家に帰らない。お義母さんと仲が悪いわけじゃない。
むしろ、互いに分身のように思っているフシがある。
お義母さんは、僕が言うのも妙だが、怖いくらいに美しい人だった。インパールで夫を亡くし、ずっと女手ひとつで、娘たちを育てた、その凄味かもしれない。
結婚式は、白金の八芳園だった。
立派な日本庭園に、合宿所のおじさんおばさんと後輩たち、なぜか、大学の応援部の面々までやって来て、振り付きで校歌斉唱してくれた。
佳代の姉たちは、恥ずかしいと言っていたらしいが、佳代自身は、格調高い庭で、学ラン集団に胴上げされる、紋付き袴の僕を、笑ってみていた。
白無垢姿の佳代は、本人が大好きだという、百合の花のように美しかった。
式がすべて終わり、帰りぎわに、佳代の母親が、
「太志さん。不束者ですが、娘を、佳代をよろしくお願いします」
と、静かに頭を下げた。あとにも先にも、お義母さんの声を聴いたのは、それだけだ。
その言葉の重みを、僕はそれから、少しずつ理解することになる。
佳代は、ほとんど口を利かなかった。
それでも、不思議なくらい、僕たちに不便は無かった。
女学校でも、勤め先でも、佳代は、人に好かれ、彼女に思いを寄せる男も少なからずいたようだが、当の本人が、なんと言うか、まったく心を開いていないのだった。
佳代は、なにを見ているのだろう。
その視線の先には、なにがあるのだろう。
僕は、ときどき不安になる。
テニスボールを追うことと、クルマを乗り回して売ること、それしか知らない僕に、佳代の心を、掴めるわけがない。
不安でたまらなくなると、無性に彼女を抱きたくなる。
出張先でも、あの手この手、いろんな接待を受けるが、夢中になる上司や同僚を眺めながら、僕はひとり醒めた頭で、佳代のことを思っていた。
産婦人科の前で、サニーと一緒に待っていると、佳代が、めずらしく頬を赤らめて、三か月だと言った。
本当は、ガッツポーズで叫びたいくらい、嬉しかった。
佳代のお腹に、僕の子どもがいる。
それで、じゅうぶんだった。
世界が、急に色づいて見えた。
沖縄出張は久しぶりだ。
パスポートが要らなくなっただけで、本土復帰後も、那覇や地方も、相変わらず、アメリカ兵であふれていた。
あと数年で、左ハンドルから、右ハンドルに変わるとあって、業界も混とんとしていたが、車の売り上げは、悪くなさそうだ。
早く、東京に帰りたかった。
それで、フェリーはやめて、九州から国道2号線で帰ることにした。
オリンピックも、万博もあったのに、この国の高速事情は、なかなか良くならない。
ものすごい渋滞だった。
これは道路のせいじゃない、ドライバーの問題だといつも思う。
日本人は、みんな運転がヘタクソなのだ。
自慢じゃないが、僕は社内でも、運転がうまい。財布のひもが堅い客も、一度、助手席に乗せてしまえば、降りるころには、たいてい気持ちよくなって、買う気になっている。
上手な運転とは、そういうことだ。
ほらほら、無駄に車間距離を取るなよ
顔や口には出さないが、僕は意地のわるい、教習所の教官のような気持ちで、すいすいと車線変更していく。
こちとら、女と腹ん中の子どもが、待ってるんだよ
僕の腕の中にいるときでさえ、佳代の心は、どこか遠くにある気がした。
耳を立てて眠る犬のように、いつでもどこかへ行くような。
でも今、佳代のお腹には、娘がひとり。医者に言われたわけじゃない。
わからないけど、女の子だと思う。
きっとそうだ。
佳代に似て、不愛想だけど、弾けるように笑う、女の子。
左斜め前を走る、トレーラーが、ウィンカーを出している。
第一通行帯を出たいのか・・・
さっきから渋滞気味だから、嫌になってるのか・・・
気持ちはわかる、きっと、先行車が、ちんたら走ってるんだろう。
名前は、なんにしよう。女の子だから、そうだ。
美しいに、佳代の佳で、「美佳」。
それで、今度こそ安心して、三人眠るんだ。
僕と、佳代と、娘と・・・
突然、目の前に、フラッシュが焚かれた。
眩しい光の向こうに、懐かしい京都の風景が、ひろがっていた。
昔のままの、母がいる。
あのレコードが、聴こえてきた。
・・・やっぱり、あのアメリカの絵描きには、なにか、仕組まれてるな。
きっと、昔から。
(了)
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