『三文小説』 vol.3【小説】
これは、三文小説。
枕詞は「あなたは知らないだろうけど、」 で始まる物語。
―――中村シズ、の場合―――
「あなたは知らないだろうけど、あたし、好き
な人がいたのよぉ」
おむつ替えのために、自分で腰を上げながら、シズが、繰り返す。
そりゃ、知らないですよ、と思いながら、美夏は、
「あ、中村さん、ちょっと、腰もう一回上げ
て、お薬、塗っときます」
褥瘡を作っては大変なので、鶴崎も、他のヘルパーも、おむつ交換の際には、排泄物だけでなく、肌の調子には気を使う。シズは、自力で腰の上げ下げができる分、楽な姿勢ばかり取るので、神経がマヒしがちな部分の、肌荒れには注意が必要だ。
今しがた、夫の亀治が、今日の昼はなにが良いか、聞きに来た。
「なにって、あたしはそんなに食べないわよ。
それよか、ヘルパーさんにおむつ代えてもら
うんだから、出てって!」
シズは、夫を追い払った。
「それでね、好きな人は、二十歳で兵隊とられ
て、死んじゃったのよぉ」
と、話を続ける。
交換が済むと、ほんと、戦争って、嫌なもんよぉと、美夏に身体を預け、慣れた調子で、車イスに腰を移した。
そのまま、亀治の待つ、隣の部屋へ、昼食に向かう。
「おたくの、鶴ちゃんは元気かい」
「鶴崎ですか、はい、おかげさまで。
今日も、亀治さんによろしくって、言ってま
した」
鶴だの亀だのって、やかましいねぇ、シズが、亀治がコンビニで買ってきた、梅干おにぎりの包みを、長い爪で剥きながら言う。
大手生命保険会社の、役員をしていたという亀治だが、江戸っ子のシズの前では、どこか小さくなっている。
それでも、この東高円寺の家を、退職金で買ったとき、現金で、ポンッと不動産屋に払ったというのだから、亀治も、シズに負けず、宵越しの金は持たねぇ、気質の男なのだろう。
この二人は、お互いに、耳が遠いせいもあって、いつも大声で、けんか口調だが、実際は、おしどり夫婦だと、美夏は思う。
「おい、こいつは、男か? それとも女か?」
亀治が、テレビの、マツコデラックスを指差して、声を張り上げる。多分、聞こえているのだろうが、シズは答えない。かわりに、
「最近のおにぎりは、梅干しの種がないねぇ」
あたしは、あの種が、好きなんだよ、とぶつくさ言う。
そして、亀治もあきらめて、忘れかけたころに、
「マツコは、男だって、言ってんだろ、何度言
わせるんだい。
早く、野球に、チャンネル変えとくれよっ」
と、夫に檄を飛ばす。
シズは、大の野球ファンなのだった。
残念ながら、美夏は、野球を知らない。ルールくらいは分かるが、どこのチームがどうとか、選手がすごいとかは、分からない。
聞けば、シズは、脚が利かなくなる直前まで、ひとりで、神宮球場に通っていたらしい。野球、とりわけ六大学野球の、熱心なファンなのだった。
「あたしの、好きな人も、早稲田の野球部員だ
った・・・サードでね、生きて帰ってたら、
長嶋なんか、目じゃなかったよ」
出征する前に、抱かせてやれって、昔は、娘を承知で、差し出す親もいたのよ。
でも、あの人は、
「自分は、学生です。お帰りください。来てく
れてありがとう。
でも、帰って、大学を終えた暁には、どうか
自分の嫁になってください」
って、指一本、触れなかった・・・。
人は、思い出だけで、生きていけるものだろうか? 美夏には、とてもじゃないが、耐え切れない。
若い世代を、戦場へと、追いやった大人たちは、純愛とはなんであるか、知る由もなかったろう。
それが、当時、娘を差し出した、親たちであろうと、関東軍の老獪たちであろうと、その罪の重さは、同じなのではないか。
老獪たちは、さらに、アジア各地の戦場に、若者への罪滅ぼしのように、慰安所を設けた。
故国に、指一本触れない恋人を残し、出征することを強要し、代わりに、現地や侵略地から、連行してきた'女性たち'を、あてがった。
'軍需物資'のように。
「死ぬとき、ひとりでいいから、好きな人がい
て、どうしても忘れられない思い出があるな
ら、それはとても、幸せなことよ」
「それは、亀治さん、ご主人じゃない?」
「まあね・・・
だってその人は、永遠に二十歳で、詰襟の学
生服のまま、真っ白な野球のユニフォーム姿
のまま、なのよ。
あんなジジイが、敵うわけないじゃない」
自室に帰り、ベッドの上で、タバコを燻らせながら、シズは、いたずらっぽく笑った。
ハンカチ王子の活躍で、早大野球部が、五十年ぶりの早慶優勝決定戦で、優勝に輝いたその年、夫の亀治に見守られ、シズは、静かに旅立った。
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(続)
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