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自己愛性と正義中毒

読んでみようかな?と思って開いて頂き、ありがとうございます。

これを書こうと思ったきっかけは、最近私の身に起きたこと、そして「なぜ人は他人を許せないのか」という中野信子さん著書の本を読んだこと。
本の表紙に書かれた「正義中毒」という言葉が、自分の出来事を考察した時に浮かんだ言葉で、結論と重なったから。
あとは最近、心の支えになっている猫の格言、自分が立っていられるのはこの言葉のお陰で、今の気持ちをシェアしたいのと、記録として残しておこうと思ったから。

はじめに

ここ数年ネットでの誹謗中傷、個人叩きの様な行為が取り立たされているが、これはネットの中だけの話ではないようにも思う。それは昔とは異なり、手紙もemailやチャットアプリ等といった直接相手に用件や意思を伝える事が便利に行えるようになり、その簡単さや手軽さが逆に使い方を間違えると暴力ともなり変えない危険な面をもつ。直接面と向かって言わないから、相手にぶつけた言葉が傷つけていることも、顔を見ないから言える事に気がついていない事や相手の気持ちが見えない事、想像できていない事、または罪悪感が起きてこない。その罪悪感がない代わりに、正しいことを言った「正義感」と共に「達成感」や「満足感」が残るのではないだろうか。

ネット環境が普及し始める頃に言われた希薄になりつつある人間関係が、人間関係の構築を学ぶ前にこの言い易さが起こした勘違いで、ますます人間性や人間関係を作る事が繊細で、難しく、間違った方向に行きやすくなっているのではないかと思う。

そんな中でもがいた結果、私は「何も言わない」と沈黙を貫くと決めた事がある。

ある人との関係性

その前にこの話のBackgroundを少し。

人との関係性を持つ際に、前もってその
人について、相手について知ることはとても大切だと思う。それは性格だけでなく、その人、を知ることがとても大事で、容易に関係性を持つ、築こうと思うことは良くよく知ってからの方がいい。

インスタにある猫の格言
言っていることではなく、やっている事がその人の正体
言っている事と全く違う…真逆じゃないか。私はこの言葉と同じことを感じ、今思い返すと危険信号として感知していた。だけど、それを感じつつも、気付かないフリをしていた。周りに流された。好奇心の方が勝ったのかもしれない。

そして次の格言の通り、
人と人との距離が近過ぎて欠点が見えるのです。許せないなら、見えなくなる距離まで離れることです- 離れ過ぎたら見えなくなるのもそれも仕方がないことです-」
と欠点が見えるというより、虚しくなる程、いい様に利用される扱いを受けた。
嫌だった。もっと早く距離をとるべきだった。

人は生きていく上で自分の良い面と悪い面を理解し、認めることで生きている。

だが、稀にそうではない人がいる。

そうではない人は、自分を偽って素晴らしい人のように近づいてくる。そして気がつくとマウントをとられるかのように、自身の存在に影響を及ぼしてくる。その人と関わる事で、自分や元々あった友人関係に障害が起きてくる。

例えば、会食を計画する、するとその人は自分の都合で場所や日程を押し付ける。だが、平気でドタキャンする。それも他の予定と天秤にかけ、優先順位をつけた結果。何の悪びれた素振りもなく、それができる。
その素行が遺憾で残念だと伝えると、適当な嘘を言って誤魔化し、話しを逸らす。その嘘ですら覚えていないこともある。
普通の人であれば、注意を受ければ今後同じ事は繰り返さない。繰り返さない様に努力する。
一方、その人は繰り返す。

自分に悪い面があるということを認めることがとても苦手なようで、殆どの事を悪いと思わない。謝ったとしても何が問題かわからず、謝っている事がある。
だから、「どーせ皆んな自分が悪いって言ってんだろ、じゃあ謝るよ」とか「自分が悪いって事だろ、謝ればいいんだろ、ごめん。」という言い方をする。

後には言い訳を始め、気がつくと誰かを悪者にして結論づける。あの時あの人がどーしたから、どー言ったから、「だから自分は悪くない」と。
その人は互いの面、特に悪い面を見たときに生じる葛藤を受け入れることができない。そして、受け入れることができないから、人のせいにしたりして現実から目をそらして生きている。

またその人は「自分は有能で他の人が自分より怠っている」と思っている一方、人から認めてもらいたいために時には自分自ら自分を卑下する裏腹な行動をとり、「そんなことないよ」と言われ気持ちを満たす行動をする。

自分は嫌われて離れていくことを分かっておらず、何も感じず、気づかず、それでも身勝手な行動を取り続ける。

そう、その人はナルシシストの中でも最近よく目にする…

その人との付きあい

その人は初対面ではとても好感度が高いというか、素晴らしい人という印象を受ける。大抵は最初、自分の功績話をする。自分が自分の功績話をしていれば、人は魅力に感じ集まってくると信じてるのだろうし、話術も素晴らしく、お近づきになりたいと思わせる。

その人は、いつも自分を支持してくれる人を必要とし、それは、恐らく自己肯定感が低いため人からなのだろう。良い評価に固執している状態であることがうかがえる。

よく皆んな自己中な人や自分大好きな人をナルシストとかナルシシスト、自己愛が強いなんていうが、学術的には単なる自己中や自分が好きというのとは別なのだ。

心理学を勉強している人は、上の「あの人との関係性」を読んだ時点で気づくと思うのだが、そう、その人は学術的にいうナルシシスト、その中でも自己愛性人格障害だと思われる人。Web検索したそれらの人にピッタリ合致し、私の人生では初めて関わってしまった人で、どうしようも出来ない、離れる事を考えるしかない人であった。

その人は、周りの評価を過剰に気にする特徴を持っている上に、自分は特別な存在と意識をしたいがため、面倒くさいくらい自分の功績話や確認のために自分を卑下し、そんな事ないよと必ず言ってくれる人、自分を支持する人を傍に置き、自分が動きやすい環境を作り出そうとします。その不安が満たされない場合は他の人にも連絡をし、確認する。ちなみに、この傍に置かれる人は世間では“ターゲット”と呼ぶのだそうだ。

面倒くさいくらいであればまだ良いが、私は自分が利用されている、捨て駒にされる、そんな扱いもうける。世間で呼ばれている“ターゲット”という存在に置かれてしまいそうになっていることに気づいた。
距離をとろうとグループで会う誘いや連絡を断つのだが、これが結構難しかった。

連絡を断つっていると、私の存在が必要となった時に突然お誘いがある。だかこれが、
例の猫の格言、
ビックネームをチラつかせる人に気をつけなさい
と自分が特別な人のようにビックネームをチラつかせ、知り合いであることで注目をひいて紹介してあげるよ。と利害関係を持つ事で友情を保とうという行動を起こしてくる。また相手に誰かを紹介する事で顔が広いという形で自分の評価を上げる事を考える。

そんな誘いを断り、その他で私が別の友人と会っている事を聞きつけると、自分が嫌われてる。とか、仲間外れにされた。とか、飛ばされたと被害者になり、突然電話がかかってくる、最初はキレた様に怒った声で捲し立て、話しをしていくうちに冗談を入れ、仲直りする様に、今度ご飯に、お茶でも、飲みに、行こう等といい出す。

ここでまた思い出す猫の格言
「急にブチ切れたり、急に優しくなったりする人」に要注意。そういう人は「少し優しくすれば許される」と思っている人です。離れる準備を

“ターゲット”された人はどこまでも付きまとうわれる傾向があり、“ターゲット”にされた方が何かしら反応すると、その人も反応を楽しんだり、激昂したりの反応を返す事で上下関係を作ろうとする。そんな関係性を構築して逃げられない、離れる事が難しくなるので、できるだけ関わらないようにして、関わってきても無反応に近い対応をする必要がある。

ただ、関わらないように対応していても、執拗に相手が絡んでくるので、関わらないようにすることもなかなか大変で、先に自分自身が参ってはいけない、根をあげまいと、相手に反論、反応すると、ますますターゲットにされもっとボロボロな状態になる。

何が起きたのか

そんな風に私はいわゆる取り巻き、“ターゲット”になりたくない離れようとした事が、きっかけで気に食わないムカつくとそばに置く“ターゲット”ではなく、“敵” そう、執拗に相手に絡まれる人になってしまった。

その人は自分を受け入れない人を“敵”として攻撃し、人格を否定し、悪口をいう。それは、いわゆるパワハラだった。私とは別の人にを“敵”として、固執し執拗に攻撃した事がきっかけだった。
実際、その人は年齢や立場的には上で、その人に注意促さなければ、繰り返されるだろうというクレームがきっかけだった。
私も執拗に攻撃された“敵”とされた人を気の毒に思ったため、そのクレーム対応をとして注意することに賛同した。ただ会議などで注意する、ではなく、その人の面子を保つため、数名で話し合うという形をとった。が、その人の受け取り方は全く異なった。そしてその人を気遣ったこと、威厳を保つためにと配慮したこと等など、何もかもが裏目となり無意味になった。

そう、その人は“ターゲット”達と話す中で、すっかり被害者になり、私を“敵”とターゲット達との会話で認定した。私がどー言ったから言われた通りにしたら、パワハラ扱いされた…と。

そして自身が自ら辞めると言い出した事までも、正しい手順を踏まずに辞めさせられたと言い出す。delusionalで話がどんどん変わっていき最終的にはもともとあった出来事、単に注意し、話し合った内容から大きくかけ離れた事柄になっていた。

これがその人が絡んだ出来事でいつも起きる事態だが、勝手な一つの側面だけが「真実」のように周囲に伝えられ、誰かを悪者にして事を治める。そして、“敵”、今回の私と同じ様に、敵意を持った人の様な“敵”(私)が作り上げられ、悪者とするのだ。

ちなみに私は言葉巧みに人を操るそんな人だそうだ。だが、どんな大人も自身で考え、自身で判断する。例え、私と話しても正しい事でなければ、従わないと思うのだが…操られるのだそうだ。

被害者を装って悪者に仕立て上げた相手をストレス解消の様に非難する。相手を卑下する言葉や揶揄で彩られた文章が出回った。

大人になっても部外者をまきこんだり、無関係の人に自分の正義を伝え、同情を得て仲間を作り、仲間はずれをする。そう、“ターゲット”達を使って。憶測や嘘を信じさせ、正義中毒者が生まれる。

訳もわからない内容の話で議論は進む。何なのだろう…正義によって攻撃する、きっとそれは快楽でもあるのだと思う。

沈黙を貫くこと

相手にしない。関わらないためにはどうしたらいいのか。考えた末に出した結論、誰にも何も話さない事。

沈黙を貫く決心ができたのは、最初に私の意見も聞いてくれた数少ない人達、真の友達と呼べる人達。そんな人達の顔が浮かんからだ。他には何も要らない。でも、これ以上、起きた事実を興味本位でいる人達には話さない、話してはいけないと思ったのは、私自身が正義中毒になってはいけないと思うからだ。

沈黙を貫き通すしかなかった。

しかし、沈黙を貫き通すことは、いわば予め準備された場で準備された全く違う事実が公言される側面もあり、その事柄が真実として広まっていく。そうなってしまうだろうことは予測はできていた。

ただ、実際に起きた出来事を暴力的な言葉や話でなかったことにはできない。話題をすり換え自分が正しいことにはできない。それに対して意味を持たない。だから、何も言わないという選択肢しかなかった。覚悟は未だない状態だった。でも、何も言えない、言っても仕方ない、そんな状況を受け入れざるを得ない状況だった。

話さないと決めた事、それは間違っていないと信じたい。

正義中毒

正義中毒は誰にでも陥ってしまう。

驚くのは、この事柄について一方的な作られた真実を聞いて、共感をし、自分の身に起きたかの様に振る舞い仲間となっていく人が多い事だ。そしてその仲間で話した内容が話を大きく捻じ曲げまた新たな真実が出来上がる。全く関係のない事例までも関連する出来事として都合が良いように塗り替えられる。

そして大人なのに両方の意見を聞かず、両方の側面を分かった上でジャッジしない事だ。“ターゲット”の正義中毒になっている人、誰一人私に話しを聞きにくることはなかった。

別件でLINEで連絡した人も既読無視の人がいる。恐らく“ターゲット”として正義中毒になってしまったのだろう。

話し合う場として設けられた機会も、話し合うつもりは全くなく、準備されたストーリーへ結論へ結びつけられるために時には暴力的な言葉で、何も反論や説明出来ない状況にされ、何を言っても揚げ足をとられ、攻撃され怖いと感じ、何も言えなくなる。それはリベートでもなんでもない。
その人だけでなく正義中毒者から届いた言葉の恐ろしさ。私は家族に万が一、私が刺される、殺される様な事があったら、「この人達だから」と言うほど、恐怖を感じた。

そして“ターゲット”だけでなく、その他の人に会う事も恐れていた。

正義中毒に陥ると、それに酔って、十人十色、様々な形で攻撃をする、してくる。そんな人達を許すことは難しい。だけど、許せない人になる。それは、同じカルマを背負ってしまう事になるような気がする。

そんな自己愛性人格障害から執拗に責められ、正義中毒のターゲットとなった。これはもうイジメだ。

大人のイジメはタチが悪い。優しい顔をしてそんな裏側を、“ターゲット”達が何を言っているか教えてくる人がいる。

イジメの果てに起きた

実際に起きた事を言葉で捻じ曲げ、そしてその言葉を信じた正義中毒である人達が、相手の頭の中のシナリオ通りに進み、暴露大会の様な攻撃的で謂わば吊し上げ、公開処刑され、実際に起きた事と全く違ったことにしてしまう。そこには本来あった出来事の何の事実もない。

きっと今まで過去にあった出来事を口で変えてきたのだろう。自分は悪くない…と。

憶測で作られた話をまた鵜呑みにし、攻撃してくる人、聞いた事実を勝手な解釈で自分も同じ被害者として仲間入りをし、部外者であるにも関わらず、一緒になって正論のように振り翳し始める人がいる。なんなんだろう。誰も別の側面を見ようとも、話を聞こうともせず、部外者なのに、自分も渦中にいるかの如く避難する。

誰一人として直接私に話を聞きに来る人はいない。どちらの話も聞いて判断しようとしない。操られる⁉️人は自分で考えて行動、判断する生き物ではないのか。誰かの話が正しいと思った時点でそれはあなたの考えだ。
問いたいのは、“ターゲット”達は「操られるから話さない方がいい」という洗脳にかかっていると気がつく人はいないのか。

だが、そんな中で私の不安は的中した。

事件は本当に起こったのだ。友人たちの目の前で、私の首を絞めたのだ。誰に挨拶することなく、突然家に入ってきて、両手で私の首を絞め、頭が前後に首がガクガク折れるのではないかと思うほど、ふって。恐怖と苦痛に耐えるしかなかった。
止めに入った友人に笑いながら友人と計画していたと笑い話のように言いながらも、私は友人と計画していたと聞きますます恐怖で理解に苦しむ。

そしてまたそれをなかった事のように普通に生活し、辛さを訴えた私を今度も同じ様に加害者にしようとする。誰も私の恐怖を知らない中で。正義中毒者達がまたそのイジメの出来事を、なかったかのようにする。大人のイジメはタチが悪い。私の心に大きな傷を残す、半年経った今でも癒える事のない。

本当に起きた事をなかったことの様にする人達、これはイジメを隠す学校と同じだ。

最後に

私はこの本「なぜ人は他人を許せないのか」が「他人を許せない」という感情がどのように生まれるのか、脳科学の観点で解き明かしていて、この本をその発露の仕組みを理解することで、その当時の自分に何が起きたのか、そして何が正解だったのかをか見出そうとしていたのだと思う。また私自身、頭の中を整理するかのように、こんな事をNoteに書いているのは、私の脳もまだ実は自分に起きた事に怒っていて、許せないと思っているからではないかと思うのだ。

読んで頂きありがとうございました。

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