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私にとって「友達」は、お互いを縛らない距離感のある人たち、と思う話

私は、人とかなり距離を持っていないと、
「友達」と呼べなくなるタイプなのかなって思います。

でもその距離感は、一般的にはかなり、遠いと思われてて、友達でさえ、「知り合い」としか思わないぐらいの遠さでいるしか、なくなっている気がします…でも、みんな、これで満足はできるんでしょうか?

遠いけど、だからこそ「友達」と呼びたい理由について、ちょっと話してみようかな、と思います。


私は、いつも一緒、タイプが苦手...

一般的には、友達、というと、いつも一緒にいて、移動を共にして、同じことを同じタイミングでやれる人、という印象を持たれているのかもしれない。
が、私はそれがちょっと違う。

私は、同じタイミングで同じことをやることさえできれば、それで満足できる。タイミングは一緒で、違う場所からであっても、まったく問題はない。

…だから、だから私には、このインターネットで繋がっている、ぐらいの距離感が心地よさを感じるのだろう。

誰かと、一緒にいれるタイミングは大事にするけど、
それがあまりにも、続くと不安定になる。

たとえ好きな人であっても、
ひとりになりたいタイミングを持たせてくれないタイプとは
おそらく、うまくやれないのだ。

今、縁があるのは(とはいえ、現在は会える状況にないので連絡を止めている)
自分一人でも、楽しむ術を持っている人に、限定されてしまうのかもしれない。

また、それに他人を過度に巻き込まない人を選んでしまうのだろう。

もちろん、誘いに乗ることだって、かつてはあったし、
私が誘う側に回ることもそれなりにあった。でも...
〇〇するときはいつも一緒じゃなくちゃ駄目!、
他の人と遊ぶの禁止!
みたいなタイプとは、残念ながら、
一生、お付き合いすることはできないだろうと思う。

このタイプは、時間が個人の裁量でコントロールしていいもの
という考え方が、ないのではないかな、と思ったりする。

その人都合の離脱を許さない、途中参加を嫌う、誘いにのらない人は身勝手…
などの認識を持つ人は、
自分にとって都合が悪い状態が起こると、下手すると、その印象を周囲に吹聴してまわったりする(私も不安定になりすぎると、そうなってしまうことがあったが、今は多分、まず起こさない)

おそらく、相手には、相手の置かれている、自分とは違う立場や境遇、環境、
人付き合いがあることを意識していない人が多いのだろう。

…自分が忙しい(優先したい別の事柄がある)ときに、執拗に誘ってくるタイプがいたら、どうだろうか?

自分の予定を断ってでも合わせてしまう人が、世の中には多いのだろうと思うが…

それって、自分を合わせにいった、という気持ちより、
やりたいことをさせてもらえなかった、の気持ちのほうが、
後々強くならないだろうか?

人によって予定をコントロールされるのは、
少なからず、ストレスになる行動なのではないか?

…なんて私は思ってしまうため、自分のしたいことがあるとき、誘ってくれる人には、『行きたいけど、今はできない』を極力、伝えるようにしている。
(不安定になってしまうとそれさえ伝えられなくなることも、残念ながらある)

そのことで、私の事を「身勝手で人の都合に合わせられない人」という印象を抱いて、なおかつ、人にもそれを話すような人とは、少し、付き合い方を考えないと、私の精神衛生上、良くないことがあって、最終的に...自分を大事にできなくなるきっかけになりかねないな、と思ったりするわけである。

自分の気持ちを尊重できないときに、他人の意見は尊重していくことは難しい…と私は考えているので、こういうときは、前向きに、距離を置くようにしているのである。

それが、私の場合は、年単位でも平気であるので、「友達」と呼んではいけない気もしてくるのだった。...友達と呼んでくれるのなら嬉しいけどね。

…とはいえ、私は「友達」と言いたい人がいないわけではない。

私の場合は、一緒になりたいときに、一緒に行動する、
を大切にする人が「友達」や大切な人になるタイプなのかな、と思うのだ。

もちろん、すれ違ってしまうと、もう縁を結ぶことは、とてつもなく難しくなる。わかり合うタイミングを逃すと、それはいつまでも解決されないまま、その時ごとの他に大切にしなくてはならない縁があるだろうし、優先する項目ではなくなってしまう。

でも、私はひとつ、信じていることがある。

それは、自分の好きを変えなければ、いい縁も悪い縁も、
繋がる日が、いつかはある、ということだ。

私の場合、いい思い出になった縁も、悪い思い出になってしまった縁もある。
それくらいに、実は、世界は『狭い』。

同じものに縁し続けてる限り、どうしたって、縁が繋がる可能性がある。
それは例え、別人になりすましていたとしてもだ。

だから私はあくまで、元の名義で繋がった縁を大切にしたいがために、『転生』的なことはしない。

元の名義と今の「私」である、Twitterやnoteのm.という人格は、リアルで会えてた元名義と、同じように振る舞うことが難しいから、同じ振る舞いができるようになるまでの、『リハビリ』的な働きをさせたいのだ。

…とはいえ、元名義に戻ったとして、間違いなく誰かしらには、非難されるだろうし、失望もされる、と思う。

繋ぎたい縁にこそ、容赦なく切られる可能性も否定できない…でも、そうなってしまうのは、あまりにも、不誠実にしか見えないやり方で、活動が止まってしまったので、致し方ない。

…私にできるのは、そんな振る舞いをされても、誰かを「恨まない」ことだと思う。ただ、やっぱり傷つけられてるので、嫌いって感情は持ってしまうのだと思う…復縁するのは、なかなか難しくなるだろうな…


…だいぶ話が、脱線した。

そんなわけで、私は「友達」と呼ぶためには、

お互いの自由を受け入れられる関係性でいれるか

が基準になるのだと思う。


だから、私には守りたい「友達」がいる

現在休眠させているアカウントの中で最古のTwitterアカウントがあるのだが、
(元の名義のさらに前の名前から動かしているアカウント)
こちらのフォロワーが、休眠してから、
ほとんど、そのままの数、繋がり続けてくれている。

彼らは、間違いなく私の「一番大切な友達」だ。

年齢も性別も、幅広く、かつ、関わりのある界隈は一つじゃない。好きなものが変わり続けようとも、ここで繋がっている数十人は、私のあらゆる気持ちやあらゆる一面を、ある程度受け止めてくれている。

私が自分の意志で繋いできた関わりだ。

こんな関係性を得られた、『音楽』や「ネットの声活動」というのは、
私をこれまで何度も、救い続けてくれたし、これからも、救われていくのだろう。そして、できることなら、私もそんなみんなを救う側にまわりたい。

彼らが何かに悩んでいるなら、私はできる限りで力を貸したい。とはいえ、今は声と歌とちょっと作詞、台本ぐらいでしか、協力はできないけども…

そして、そういう関係性を持つことで、心が楽になって、
生きるのが楽しくなる、ということを、これから、社会に向けて、
発信していきたい。

だから、いずれは、私は、コミュニティ運営とか、
そういうものに、発信者として、運営者として、
活動していくことになるかもしれない。

今までも、私きっかけで、繋がる縁をいくつも見てきた。
私のいないところでも、仲良くしている人たちも見てきている。

私はそれを純粋に、繋がれてよかったなーという気持ちで見つめることができている気がする。そんな関わりに、心を救われた、なんて言われたら、
私は本当に素敵な人たちに囲まれているんだな…なんて実感をする。

かつてコミュニティに救われた私のように、
『好きを大切にしてたら楽に生きられるようになった!』
…そう思える人をこれから、増やしていきたい。



将来的には『好きを大切にする生き方』で、それぞれの「いきづらさ」に寄り添える仲間づくりをしたい!

実生活の悲しみさえも、素敵な繋がりで、乗り越えていける。

私はもう、確信を持って、人に経験談として伝えられるから、
そんな「友達づくり」ができる考え方を、皆が持てるといいのにな、
と考えている。


noteにはサークル機能もあるし、
いつかは、動かすかもね。

気になる方は、ぜひ、フォローしておいてくださいね!


いきづらさを少し軽くするお手伝いを、
私の「声」や「経験談」、「創作活動」
で、『成果』ができるようにしていけたらいいな!

これからのTwitterとかRadiotalkではそんなふうに活動していきたいね!


・ ・ ・


普段『好きを大切にする生き方』というテーマでnoteの発信をしています。

また、Radiotalkで「ゆるcafeれでぃお」という番組の中で
音声での発信活動をしていますので、よければこちらも聴いてみてください。
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