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殉職系男子――イリィの場合

 新入りがアリサに惚れるのはいつものことだ。
 最初のうちこそ逐一敵愾心を燃やしたものの、今では彼らの話に耳を傾ける余裕すら出てきている。どれほど思い募ったところで、アリサが誰のものにもならないことは自明なのだ。同病相哀れむ、というやつか。
「イリィ、その表現は職業倫理上、よろしくないかと思いますが」
 突っ込まれて、さすがに彼らもプロだと感心する。
 午前5時。アリサの静かな寝息を聴きながら、イリィもまた体を休めていた。交代前のひと時。彼らの話を聞くのはこの時間帯が多い。
 彼らの恋は、概ね同じような過程を辿る。ここへ来て初日で彼女を知り、二日目には早くも全面的な好意を抱き、三日目で熱烈な慕情に身を焦がし、四日目でそれがどうあっても叶わないものであることを知り、五日目から六日目で、それでも職分を全うしていくという肚を決める。平たく言えば「身の程を知る」のだ。
 だから四日目の時点で、イリィはこうして声をかけるようにしている。「ここを越えれば楽になるさ」。あえて先輩風を吹かせて、モチベーション向上に一役買うために。
「つらいんです。アリサは僕の顔も知らないのに」
 もう何十人になるだろう。彼らがどんな泣訴を持ち込もうと、イリィは辛抱強く相槌を打つ。「アリサがいないと生きていけない」と打ち明けられ、つい笑ってしまったのは失敗だった。顰蹙を買ったが、それは誰もが同じなのだ。アリサがいないと生きていけない。
 今でも密かに願う。自分の任期が終了するまでに、一度でいい、アリサの髪に触れることができたら、その瞳に見つめてもらえたら。恋というやつは叶わないと知ったところで、そうそう諦められるものでもないらしい。
「でも少し気持ちが落ち着きました。ありがとう、イリィ」
 幾分晴れやかな顔をして、彼は業務に戻っていった。最初は「ただの運び屋」とイリィを軽視する彼らも、アリサへの失恋を通過儀礼として打ち解けてくる。イリィ、という愛称も、そのあたりから口にした。本名を名乗ると「発音が微妙で覚えられない」と笑う彼ら。彼らはイリィと比べて配置転換のサイクルが早い。口々にアリサへの恋を語っては、イリィの前から姿を消してしまう。
 そんな彼らは時折、使い捨ての殉教者、と揶揄されることもある。その文句がイリィを含んでいることも知っている。反論はない。恋する者は誰もが殉教者だ。
 アラームが鳴る。アリサが目覚める気配を感じ、同僚の帰りを待たずにイリィは飛び出した。
 Erythrocyteのイリィ。赤血球の、イリィ。
 固有の名前など必要ない。どうせアリサに呼ばれることはない。こんなにそばにいても、存在を知られることすらない。掃いて捨てるほどいるアリサの親衛隊のひとり。それでもこの身を賭してアリサを想う。
 イリィの任期――寿命も残りわずかだ。120日与えられる時間を、もう100日以上使ってしまっている。
 それでも全然構わない。アリサに惚れてはあっという間にいなくなる白血球――顆粒球の奴らなど、せいぜいが10日程度の命なのだ。使い捨ての、命がけのSP。ウイルスや真菌を自らの体内に取り込んでアリサを守り、命を落とす。膿となって体外に排出され、目にしたアリサが眉を顰めようと、それが彼らの仕事であり生き甲斐だ。日々5000ものがん細胞と戦い、全勝を収めるNK細胞(一敗たりとも許されない)も、病原体の情報を記憶し、アリサが一度苦しんだ疾患には二度とかからぬように目を光らせるT細胞も、T細胞から情報を受けとり抗体を産生するB細胞も。職分はそれぞれに違うが、「社是」とも呼ぶべき基本理念は変わらない。すべてはアリサを健やかに生かすために。
 朝の弱いアリサが、気怠そうに伸びをする。肺に送り込まれた酸素を抱え、イリィは脳まで上昇した。ああアリサ、もっと水を飲んでくれ。血流が少ない。血液の質も良くない。これじゃろくに酸素を運べない。また貧血を起こして倒れてしまう。君の体はほとんど水分でできている。どんな薬やサプリメントを摂ろうが、血管という運河に清浄で潤沢な血液が流れていなければ、栄養も酸素も運ぶことはできない。いっそ生理食塩水をラッパ飲みしてくれ。アリサに教えることができないイリィは、彼女が摂取するもので、なんとか彼女の体を維持するだけだ。
 同僚が滑り落ちていくのをよそに、イリィは勢いのない血流を這い上り、アリサの脳へ酸素を届ける。
「気分はどうだ、アリサ?」
 アリサは緩慢な動作でスマートフォンを手にし、イリィの知らない誰かと画面上で会話をはじめる。彼女の返事を待たず、イリィは再び浅い血流に潜った。

 120日限りの俺の恋。7μmの恋。
 十数日後には、俺たちを「殉教者」と嘲弄した脾臓や肝臓によって破壊される。その時はせめて「殉職者」と呼んでもらおう、とイリィは夢想する。
 君の内側で、今日も生まれては敗れる恋。君が俺たちのことを知ろうと知るまいと、君の鼓動が止まるその瞬間まで。
 君を、全力で守る。

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