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価値と、変化と、業にするということ

 澄んだ蒼がどこまでも続いているように見える。薄もやのような雲の立体が、遠景の奥行きを感じさせた。秋晴れの清々しさには、拡がりがある。陽の光に遮られて見えないけれど、蒼の中に点在している遠くの星々の息遣いに想いを馳せた。


 車が行き交う音と、起き抜けの子どもの柔らかな鳴き声を耳の端に捉えながら、今日もノートPCに向き合う。胡坐をかいて、背を曲げ、何を書くでもなく指がキーを叩くのに身を任せる。


 昨日読んでいた本の中に、作家の話があった。池波正太郎について触れられたその一節には、作者でさえ、描かれた光景のその先の展開は、書いてみるまでわからないのだそうだ。頭の中に材料が詰まっているにせよ、描き出されるまではそこにない物語。創り手でさえ知らない物語。


 僕たちコーチの仕事の一つは、「まだここにない物語」を描き出すことだ。それも、自身の頭の中から描き出すのではなく、目の前にいる相手の頭の中身を、口を通じて描き出してもらう。それを補助するために言葉を投げかける。


 何かロジカルなものがあるわけではなくて、聴きながら浮かんできた情景を頼りに、拾い上げた言葉を投げかけていく。直観で石を投げこんで、波紋の拡がる様を凝視する。目だけでなく、全身で聴く。観るだけでなく、波長を捉える。そんな営為だ。


 人と人との関わりは奥深く面白いものだなと思う。材料は全部各人に詰まっている。でも、コンピューターのように正確に並べ切ることはかなわない。何を持っているかさえ、自分では見えないところに押し込まれていたりする。

 それが、人と話したり、普段と異なる経験をしたりしたときに、頭のどこか、身体の何かが発火して、思い出されたり繋がったりする。膨大に詰め込まれた材料が、思わぬ形で結実する。そんな風にして、誰にも―本人でさえも―知られなかった物語がこの世に立ち表れてくる。


 
 これからの物語がわからないからこそ楽しみだ、と思う心もちと、これからの先行きが見えないからこそ不安だ、とする心持ちとが同居する。他人事か、自分ごとかの違いだろうか。悲劇になるか、喜劇となるかわからないことも含めて好奇心が湧くはずなのに、自らの身に降りかかる不幸を想像すると、その重みが勝るからだろうか。
 
 
 
 そういえば、受益と損失について、人間が感じる重みは等価ではない、という話がある。プロスペクト理論と呼ばれ、おおよそ2倍の定量差で釣り合うのだそうだ。1万円を失うリスクを負えるのは、同じく1万円を得られるチャンスではなく、2万円を得られるチャンスを見出せたとき、となる。
 
 

 これは商売にも通ずる考え方だなと思った。ことに、無形の商売の場合には、2倍どころか20倍の価値・変化をもたらすようなデザインが必要だ、という話もある。5万円でサービスを売りたければ、100万円の経済的価値を受け取り手が感じられるような変化を届けなければならない。

 
 価値というのは面白いもので、人によって受け取る量が変わる。それは「変化量」と定義することでより、とらえやすくなるように思う。


 例えば同じ情報が記されたnoteであっても、内容について何も知らない読者にとっては大きな変化を生むし、内容に精通している読者にとってはなんら変化を生まない。前者にとっては大きな価値となっても、後者にとっては時間を失わせただけ損失となっている可能性すらある。



 商売の先達と話すと、たいてい決まって「誰に」届けたいのか、という問が立つ。しかし、この「誰に」に悩む人が少なくない。「何を」したいか、は考えられても、「誰に」したいのか、がわからない、という状態が量産されているように思う。

 「コーチングセッション」は大好きだしやり続けたいけれど、「誰を」クライアントにしたいかわからない。だから「コーチングを受けたいクライアントさん募集」といった文言が罷り通る。この言葉が届くのは誰だろう?「コーチングに興味を持っている人、あなたに興味を持っている人」かな。
 
 

 1年半ほど前に、Twitterで「コーチングセッションを受けて下さる方を募集します。無償です。」と投げかけたところ、20人もの方々が集まって下さった。以前からラジオを通じて交流があった方々もいれば、僕のSNSを一つもフォローさえしていない初めましての方々もいた。この言葉での投げかけでも、それなりの訴求力はある。


 ただ、そこから有償での関わりとなった人は1人だけだ。20回セッションをして、20時間じゃすまないほどの時間をかけて、「お金を払う価値」に期待を抱いてくれた人は、1人だけだった。


 この言葉で発信をした当時の僕には、「誰に」届けたいのかも、「どんな変化を」もたらしたいのかも、無かった。とにかく手にした「コーチングセッション」という道具を使ってみたかっただけに過ぎない。


 そんな心持ちであったかどうかは別としても、「変化を創る」ことに真摯に向き合えていたかといえば、片手落ちだったのではないかと思う。スタート地点がわからない相手に、どれだけの変化を創る、と示せるだろう。


 気付きのないセッションなんてないし、盲点のない人間も存在しない。だから、現在地がどこであったとしても、セッション前後で何かしらの変化は必ず生まれる。そこが厄介であり、落とし穴であるように思う。


 「気付き」はあった。「知らなかった自分」とは変わった。でも、行動はなんらしなかったし、だから現実具体の暮らしの変化は何一つ生まれなかった。果たして、そこにはなんの価値が生まれたのだろう?



 この問に向き合ったとき、「業としての」仕事への道が拓けるように思う。1年半経った今でも、僕は毎日この問に向き合い続けているように思う。




ここまでお読み頂き、ありがとうございました!

どこか「仕方ない」と自分の生を諦めていた僕が、人生を取り戻したのは、自分の願いを知り、これを指針に生きることを選び、行動を重ねてくることができたからだなと実感します。
コーチングを学んだことで、僕の変容は加速しました。

労働観が変わり、人生観が変わり、生きる質感が変わった。その感動を届けたくて、コーチの仕事をしています。

そんな僕の挑戦の原点にある想いを綴ったnoteはこちら。



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