マガジンのカバー画像

文学の扉_literature

10
文学について書くとは文字テクストによる文学テキストへの返礼。 なんて無謀な行為なんだ。
運営しているクリエイター

記事一覧

【エッセイ】 川上三映子『すべて真夜中の恋人たちを』 触れる文学

部屋が本で片付かない。もちろん部屋を片づけることはできるのだが、本が床を占有しはじめ、部屋が片づかない。部屋は片づくのだが、部屋が本で片づかないのである。 中古家具屋さんに安い本棚を見つけてほしいと頼んでいるのだが、わたしの希望サイズの中古本棚を見つけるには2・3ヵ月かかりますよと言われた。あれから何ヵ月経過したのだろう。2ヵ月になるだろうか。まだ3ヵ月にはなっていないけれど、そろそろ本棚がほしい。「本棚が手に入れば部屋はすっきりと片づくよ。」そんなふうに言い聞かせる。わたし

【エッセイ】 ノンシャラン〜円卓袱台と漆とかぶれ

地に足がつかず、不意にどこかに行ってしまいそうになったり、どこかに吹き飛ばされてしまいそうになったり、それでいてここではないどこかに行くわけでもない、そんな状態をどのように表現すればいいのだろう。それをフランス語のノンシャラン(nonchalant)というのはどうだろうか、不意にそんなふうに思った。 たとえば tempérament nonchalant のんびりした性格 élève nonchalant いい加減な生徒 ノンシャ

【映画評】 告白の幾何学夢譚。ラウス・ルイス監督『ミステリーズ 運命のリスボン』、福永武彦『忘却の河』

わたしたちは過去という固有の時間(=物語)を持っており、固有の時間を告白することで物語は相互に交差しあうという現象が起きる。固有の時間(=物語)、それを記憶と名づけてもいい。 修道院に預けられた孤児ジョアン、彼には姓はない。姓とは出自の記憶であり、ジョアンには出自の記憶が隠蔽されている。 ジョアンが自らの出自に関する謎を探り始めるところからラウス・ルイス監督『ミステリーズ、運命のリスボン』(2010)は始まる。だが、謎を解くのはそう容易いことではないだろうし、不可能であるか

【エッセイ】 映画主義宣言日と川上弘美『なんとなくの日々』『此処彼処(ここかしこ)』

(写真は下鴨神社「古本市」) 首都圏の生活を締めくくり京都に戻ってから何年経つのだろうか。 京都に戻り半年ほどで、荷物だけでなく気持ちの整理もつき、なんとなく日記をつけるようになった。 とりあえず京都日記と名づけた。 日記といっても、これまで気まぐれに生きてきたわたしにとり、日課と義務づけても続くはずない。そこで、思いついたら書く、というユルイ気持ちで始めた。 ところが、日課とまではいかなくても、思いもよらず真面目な日記になっていることに気づいた。しかもいつの間にかガチの

【エッセイ】 ことばの匂い、写真家・エッセイスト武田花

ことばの記憶というものはあるものだ。 ことばの記憶といっても、単語を覚えているとか、フレーズを覚えているとか、そういうことではない。文章の持つ特有の流れや著者の息づかい、文脈の醸し出す匂いや湿気や空気感。そんなことが朧げな記憶として自分の身体に付着しているということである。 武田花のフォトエッセイ集を読んでいて、ことばの記憶、と口をついた。 武田花は1990年、『眠そうな町』で第15回木村伊兵衛賞を受賞した写真家、エッセイストである。 彼女の写真集『眠そうな町』を見たくな

【映画評】 黃亞歷(ホアン・ヤーリー)『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』日曜日式散歩者

映画を見た帰り、京都の中京区にある寺町通りの喫茶店に立ち寄る。 ホアン・ヤーリー『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』(2015)の街並みは、古さの中の前衛という意味で、京都の寺町通りと繋がるものがあるように思う。南北に長い寺町通りの中で、とりわけ二条から丸太町に上ル区域。そこには、老舗の紙屋、茶葉の店、かつてはモダンそのものだった洋菓子店のある街並み。もしかすると、『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』の詩人たちもこの通りを歩いたかもしれない……そんな確証なん

【映画評】 青山真治『路地へ 中上健次の残したフィルム』 路地、層

和歌山県新宮市の被差別部落を舞台にした中上健次の短編集『千年の愉楽』(1982)。同短編集を原作とする若松孝二監督の作品に『千年の愉楽』(2012)がある。誕生と死、その中間二項である“生|性”。血にまみれて生まれ、血にまみれて死んでゆく3人の〝路地〟の男たちと、その生き様を見守る産婆オリュウノオバの物語である。 〝路地〟とは被差別部落のことであり、中上健次により名づけられた用語である。地勢的にも時間的にも、深度を纏った用語である。 中上健次が生前、失われようとする〝路地

【映画評】 レナーテ・ザミ『チェザレ・パヴェーゼ、トリノ - サント・ステファノ・ベルボ』『ブロードウェイ 95年5月』。声となり眼となり

ドイツの映画監督レナーテ・ザミ(Renate Sami 1835〜)の2作品『チェザレ・パヴェーゼ、トリノ — サント・ステファノ・ベルボ』『ブロードウェイ 95年5月』のメモを整理しながら、もし再見できればレビューとしてまとめたいと思っていた。しかし、ドイツでもマイナーな監督であり、まして、日本の地方に住んでいる者に再見の機会はそう簡単には訪れない。このままでは忘却の一途をたどること間違いないだろうから、筋道が見えないながらもメモを再構成し、記事として掲載することにしました

【エッセイ】 岡田利規『部屋に流れる時間の旅』テクストとして読む

『部屋に流れる時間の旅』(新潮2016.4月号に掲載)はKYOTO EXPERIMENT 2016で上演された岡田利規の戯曲。 友人に紹介されて読むことにした。 舞台を観たくもあったのだが、台南にいた時期と重なり、観ることができなかった。 KYOTO EXPERIMENTのウェブには次のように紹介されている。 「前作の『地面と床』では、日本独自に洗練を遂げてきた能楽をも参照しながら、生者と幽霊が行き交う世界が構築されたが、今回はさらに踏み入って、〝死者に対する生者の羨望〟が

【エッセイ】 倉橋由美子『聖少女』を読んで

目覚めると喉に少しの痛み。布団もまともにかけないで寝たせいなのか。わたしの常はそうであるからウイルス感染は気にする必要はないと思うのだが、痛みが消えるまで自宅で過ごすことにする。 午前中、Kさんに手紙を書き、そして昨夜から読みはじめた倉橋由美子『聖少女』(1965)を読み終える。夕方には喉の痛みも消え始めただろうか。 『聖少女』は倉橋由美子が30歳の作品。『暗い旅』(1961)をはじめ、少女の意識の流れをテクスチャーとした作品を発表してきた倉橋なのだが、彼女自身、『聖少女